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日本と中国の狭間で生きる
​女の実録


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Grow Your Vision

 私は昭和23年熊本に生を受けた76歳の女性である。

祖母は日本人、父母は中国人の華僑2世。6人兄弟の5番目で幼児を長崎で暮らし、12歳の時、父の死をきっかけに埼玉へ移住し、東京の高校を卒業。18歳で私には外国とも言える中国へ家族で渡った。それは丁度、悪名高い文化革命が始まった年、1966年だった。

 

 そこから怒涛の苦しみの連続の10年をそこで過ごす事になる。

言葉、文化、人種が全て分からず、食べる物もなく、革命の真っ最中の事、外では毎日が武闘の繰り返しで銃の撃ち合い、殺し合いなど、さながら戦争のような時世の中、生産も停止し、食糧危機が発生し、日に2食食べれば良い方でそれもご飯に醤油を掛けて食べるだけの貧乏のどん底を味わった10年。

 

 その乱世を尻目に私は、独学で中国語や哲学を必死で勉強し大量の読書が日課となった。

そこで心臓弁膜症となり生涯の持病を抱える事になる。

 

 24歳で結婚、子をもうけ天津社会科学院と言う会社で勤務し、日本の北方領土の研究に携わり、その時日本外交史と言う本を共著で出版した。

文化革命が終わった年の1977年私達親子3人で香港へ移住した。生活のため、香港に2社あるTV局での翻訳業が始まる。香港滞在の丸10年ただただ翻訳のみに携わった。

 

 当時のおしん、一休さん、木枯し紋次郎、ドラえもん、あられちゃん、ジャキーチェンの映画、紅白歌合戦、レコード大賞、日本芸能人、沢田研二、西城秀樹、五輪真弓、アルフィーなどのコンサートとその記者会見などなど、諸々の芸能活動の翻訳通訳を心臓の持病と共存しながらあらゆる翻訳を必死でこなした。

 

 10年後、39歳で再度日本へ舞い戻り横浜で姑達と同居する。そこでも東北新社と言う映画配給会社で映画の翻訳に携わった。一生が翻訳人生だったと言っても良い。

 

 心臓病の悪化に苦しんでいる時、人はどこから来てどこへ行くのか?と言う古来からの哲学の命題を私は追求するようになり、42〜3歳の頃より独自で意識の研究にのめり込み瞑想を始めて30数年、今に至る。

 

 沖縄に”人生を語るには70代はまだ青い”と言う言葉がある。たかだか76歳、確かに人に人生を語る資格はまだ充分ではない。

 

 だが、長年の瞑想経験からこれだけは言える。見える現実と思われている現象は全てが有限脳から生じ、脳から反映された幻想世界だと言う事。脳に自由意志は全くなくそれは単なる宇宙からの受信機にすぎず、人はその脳を介して何者かに動かされ、生かされているだけなのだ。ここは自分が決定し、選択していると思わされているマトリックスの世界なのだ。

 

 この三次元世界では創造、破壊の連続で、万象目に見えている物質は全てが消えてなくなる、従ってその中に本質はない。

本質は深い静寂、沈黙の中に隠されていて、神、意識、魂、なんと呼んでも良いが、それらは中国では気と呼ばれ、インドではプラーナと呼ばれる無の中に確実に存在している。人は呼吸からその気を取り入れて生かされている。

 

 それは生まれず、死せず、汚れず、比較せず、判断せず、ただただ沈黙の中に永遠に存在する。それが本当の自分なのだ。

あなたは沈黙の中にいる時、その存在を五感で感じる事ができる。

私は毎日、その静寂の中の自分を求めてただ脳内の観念を捨て去り無になって座る。

 

 これからのドラマはその幻想世界を本物の如く思わせる過去の影の人生模様を描く事になる。主要テーマ記事は私が遭遇した中国人女性による詐欺事件でこの横浜時代に発生した。叙述の全てが三次元での真実、実録であり、登場人物の名前も敢えて全て実名にした。

 

 普通の人には本物と認識されるこの幻想世界のさまざまな人生模様を存分に味わい、楽しんで頂ければ幸甚である。

Lin Aikiku   

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ドラゴンランタン

01

1966年文化大革命の始まり

♫Yesterday all my troubles seemed so far away.
Now it looks as though they're here to stay.
Oh, I believe in yesterday.

 

 18歳の私は船酔いしながらも大海原を航行する大きい船の甲板に1人で座り込んで、大ファンだったビートルズの歌詞を練習し歌っていた。

1966年、6月。ビートルズが来日し、私は他の若者同様、熱狂し、彼らの宿泊先であるヒルトンホテルまで行き、ホテルを見上げながら感激して泣いた日からまだ1ヶ月も経っていない。だが、今は一転して家族と一緒に中国へ向かう船上の人となっていた。

 

日本の小さな世界しか知らない自分のこの先に何があるのか、自分の運命はどこへ向かうのか、何もかもが未知数の世界へ今、飛び込んで行こうとしていた。

英語の歌詞を覚えるだけで良いさ、時折り、船酔いで吐き気を感じながら今はそれだけしか考えられなかった。

 

辛い3日の航行で船は上海へ着いた。遠くから緑地の少ない、海からほんの1メートルぐらいしかない殺伐とした土気色の上海の陸地が見えた時、生物はこんな薄い陸地の上で生きているんだと言う感想だけが脳裡に浮かんだ。

 

ホテルが手配した送迎車が桟橋に横付けになり、乗り込んだら、ワラワラとホームレスかと見まごう沢山の人が物珍しげに寄って来て、我先にと車の至る所をベタベタと触り、私のスカートの中にまで手を入れて来て驚いた。

 

ホテルの所在地に近い上海の目抜通りの和平路を私と姉の2人が歩いていた時、突然、紅衛兵と呼ばれる腕に赤い腕章を付け、星の付いた布の帽子を被り、異様な血走った眼つきをした一群の若者達に囲まれた。一斉に腕を天高く突き上げ、大声で何やら我々を攻撃しようとしている。中国語が全く理解出来ないので、意味は分からずとも、自分達の身に危険が迫っている事は分かった。

 

と、また突然、靴を脱げ!と言う仕草をしたのでそれに従うと、皮鞋に穴を開けそれに紐を通して繋げ、その紐を私達それぞれの首に掛けられた。そのまま裸足で歩いてホテルへ帰れ、と言う。向こうは集団なのでこれも従うしかなかった。痛いのを我慢して歩いていると、両脇の道路の至る所で革命の歌を鼓膜が破れそうな大音量で流しながらトラックや車が駆け抜ける。ある集団は巨大なドラをガンガンと打ち鳴らしながら練り歩く。街中喧騒だけしかなかった。

 

ほうほうの体でホテルへ到着するともう二度とホテルから出ないと心に決めた。ここでは一体何が起こっているのか?なぜ、公共のバスも走らず、大勢の紅衛兵とやらだけが街を跋扈しているのか、何も理解できない。後で、通訳の人から文化革命とやらが始まり、皆んなが殺気立ってるので、外出するなとの勧告を受けてやっと少し事情が分かった。とんでもない所に来てしまったのだ。

 

 それから2週間ほどして、政府筋から自分達の親の故郷である福建へ行けとの通達で、今度は汽車で一路福建へ向かう事になった。中国の大地は流石に広大で、汽車で行けども行けども、人家は見えず、赤土の荒涼とした景色が延々と続く。

 

丸1日半走ってやっと福建の省都福州へ着いたと思ったら、ここでも紅衛兵達が我々の下車を阻んだ。通訳によると我々は邪悪な資本主義社会から来た人間だから収容所に入って教育を受けなければいけないと言う。何と理不尽な!

私の兄は日本で空手を習っていたので、家族を守ろうとしたのか、彼らに徒手空拳で立ち向かった。一触即発の雰囲気の中、通訳が中に入り、すったもんだの末、何やら話し合ってやっとの事、下車を許されたが、厳しい条件付きだった。ホテルへ着いたら即、そのスカートを太いズボンへ着替えろ、とか、姉の髪が長かったのでそれも即短髪に切れ、24時間猶予を与えるが我々は24時間後にホテルまで確認に行くので、着替えなかったらすぐに逮捕だとか言い渡されてやっと解放されたのだった。私はビートルズカットと言って超短くしていたが、それにもいちゃもんが付けられた。短いのは良いが、もっとギザギザにしろと注文が付いた。そう言えば、上海の税関でビートルズの切り抜きを貼ったアルバムも、これは黄色だからと没収された。黄色って何だ?

 

やっとホテルへ着いたが外出も出来ず服を着替えるにも太いズボンなど持っていずあったとしても細いジーンズしかない。姉はすぐに髪を切ったが、やはり、彼らの要求する服はない。じっと24時間怖い思いをしながら待った。

2日目、紅衛兵が来ると緊張していたが誰も現れなかった。後でわかったが、その日突然、中央から全国への通達が降りたのだと言う。曰く、紅衛兵は行き過ぎた事をしてはいけない。瞬時に我々は解放されたのだった。

 

 ホテル滞在中、近くに住む日本華僑の男の人が臨時通訳となって我々をサポートしてくれていた。後に、姉の旦那さんとなる人だ。

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02

華僑ゴム工場で働く

 親戚やら周りの人達のアドバイスを受けて近くにある華僑ゴム工場で働く事になった。

文化革命の最中、労働者こそが社会を率いる階級だと大々的に宣伝されていた時期だったので、私としては不服だったが、このご時世、それが一番身を守れる仕事だったには違いない。

 

 工場の規模はかなり大きく、工員は数千人はいたかと思う。

華僑と言う名前の通り、行員の殆どがインドネシア華僑で、日本華僑は2家庭しかなかった。

暫時、我々は宿舎の一部屋を与えられて新生活が始まった。

我々は半身不随の母親を連れていたので、そこで母の介護もしていた。

姉は私の兄を責め立てていた。こんな原始的な国に連れて来て責任を取れ、私は日本へ帰る、と毎日泣きながら訴えていたが、公安ですら機能していないはちゃめちゃな政情の中、ビザを取る術もなかったので姉は結局泣き寝入りしかなかった。

私と姉はビーチサンダルを生産する部門へ配置され、工員生活が開始した。

 

 文革は日ごとに激しさを増し、工場の外では政治的に毛沢東擁護派と反対派に分裂し、お互いに毎日銃の撃ち合いや殺し合いが激化して行った。

近くにある広場には毎日殺された人達の死体を見せしめのため吊るされていたので私と兄はよくその状況を見に行って、ついでに、道に転がっている大量の薬莢拾いをし家に持ち帰ったりした。

 

だが、それも外の事、工場内は暫時平和を維持していたが、その内、工場の壁という壁に大字報がベタベタと貼られるようになった。

主に、資本家打倒、党内の資本主義打倒のそれだったが、個人的な批判も徐々に貼られるようになった。

 

私はまだ中国語もよく理解出来ていなかったため、あまり見なかったが、友人が、貴方の名前が貼られていると言うので見に行ったら、確かに自分を批判されているような文章だった。

なになに的、資産階級、ブルジョワ思想、ぐらいしか分からない。

なぜ私が批判される?と合点が行かず、言語が分からない悔しさを身に沁みて感じた瞬間だった。友人の通訳によると、我々は憎き日本から来た鬼だ、ブルジョワ思想丸出しで、常に良い服を着ていて革命的ではないとか、夜ふかしして遊びまくっているとか、どーでも良い批判のための批判だった。

 

この野郎!よし!中国語を勉強してやる、

そして、反論をここに書いてやると心に誓った。

まず、第一にした事はボロボロの服に変える事だった。

自分にはボロ服がなかったため、貧乏な工員と服を交換して着替えた。

ここではまだ外国で流行しているジーンズの事を知らなかったのかジーンズだけを穿くと革命的で良いと太鼓判が押されたのでズボンはジーンズで済んだ。単純な物で、ボロボロに着替えた途端、革命的と称賛され始め、大字報には書かれなくなった。

 

それでも、文革によって生産まで停止したのを良い事に、毎日、近くの図書館へ通い、マレーシアから来た元新聞記者の家に行き、漢詩や文語、簡体字の教えを乞い、猛勉強を始めた。

常に紙と鉛筆を手に、行く人ごとに発音の仕方や読みを尋ねて覚えて行き、半年も経つと殆どの会話は成立するようになった。

 

 外での武闘は相変わらずで、銃声も聞こえる。

ある日、外の武闘の連中が大挙してこの工場に強奪に来ると言う噂が流れた。

我々は皆んなで力を合わせて自分を守ろうと集会が開かれ、具体的には、敵が来た時琺瑯の洗面器をガンガン鳴らして皆に知らせ、各家庭では、角棒に釘を沢山打ち込み、それを武器にして戦おうと言う原始的な自己防衛法だった。

 

 ある夜、誰かが洗面器を叩き鳴らしたのをきっかけに皆が皆、緊張し、戦いの準備をした。私も角棒を手に、来たらこれで殴り倒すと身構えていたが、結果何も起こらず、あれは叩き間違いだったと判明した。だが、ここで異様な事が発覚した。半身不随で寝ていた母がいない!どこだ?なぜいない?探し回ったが家にはいなかった。外に行くと母が家から離れた場所に皆と話しながら自力で立っているではないか?しかも、家は2階にる。階段をどうやって降りたのか?後で分かったのだが、洗面器が鳴らされた途端、母は怖さの余り脱兎の如く走り、階段をダダダと降りて、安全地帯まで歩いたのだ。しかも、普段立てないはずが、今は立って皆と談笑している。母は私を見た途端、前のフニャフニャ母に戻り、自力で立てなくなり、階段も支えてようやく上がった。

 

 世間ではこれを火事場の馬鹿力、或いは奇跡だと言うが、人間の能力は無限と言う事が実際に体験できた事件だった。

平和な時、有限と言う枷を人間自ら自分に課しているのだ。

オリンピックで12秒百メートルが標準だった時、9秒で走る選手が現れたらその年以降、急に9秒台が続出する現象を見ても分かる。

自分にも出来ると思考するとそれは現実となる。

 

 仕事をしていたある日、工場の党書記が来て、午後から日本の視察団が工場に来るので、皆んなに、こざっぱりした良い服に着替えるようにとの

通達があった。姉はいそいそと私に一緒に帰ろうと促したが、へそ曲がりな私は納得行かなかった。なぜ、今まで通り、素のままの自分をを見せないのか、なぜ、服を交換して、見栄を張るのか?しかも、日本は鬼で敵だったのではないのか?

私は頑として帰らなかった。

書記は残った私になぜ交換しないのかを聞いた。

私はそのままの考えを答えた。

書記は憮然とした表情でくるぶしを返して去った。

 

 その後、書記の呼び出しを受けた。明晩、書記の部屋へ来いと言う。

彼は恐らく、私を思想が悪い反革命と言う烙印を押すつもりだと踏んだ。

自分に反対する者はことごとく追い落としを掛ける男なのだ。

 私はその夜、ある戦術を考えた。

彼の性格や文化レベルから推測し、壮大な反論を用意すれば勝てる自信はあった。

それには正確な中国語とロジックが必要だ。

夜を徹して、何度も読んだ毛沢東選集を再度読み込み、赤いポケットサイズの語録の内容も

細かくチェックして、満を持して書記の部屋である小さな小屋へ向かった。

 

案の定、彼は毛沢東選集の話から始まった。彼が読んだ内容などほんの触りしか見ていないに決まっている。

私はその内容は選集の何ページに書かれてるかを尋ねた。果然、彼は答えに窮して、今度は毛語録に話題を変えた。

よし、予想通りだ。

彼は朗々と語録をそらんじ始めた。ポケットサイズだ、内容は多くて30字もない。子供でも誦じられる。しかも、冒頭の語録。

 

私はそんなに誦じられるのだったら、何ページ何段に書かれている内容を誦じてくれと迫った。彼は窮した。何ページと言われてもその段に何が書かれているかほとんどの人は覚えていないはずだ。

私は代わりにその段を誦じた。彼に反革命の烙印を押されない為に。

私はさらに迫り、語録を覚えて言えるのは誰でも出来る、その内容を実践する事こそが書記の本来の仕事ではないのか?

時に、矛盾論や実践論はご存知か?と痛い所を突いた。

 

お互い大声で喧嘩のようだったので、夜というのに周りには続々と人が集まり始め、沢山の人が窓から覗き見していた。

これで良し!沢山の証人が集まれば書記も不当な報復を私には出来ないだろうと私はほくそ笑んだ。

 

 その夜の出来事は翌日すでに全工場の人の知るところとなった。書記はそれ以来、私を煙たがり、相手にしなくなったが、報復は見えない所で行われた。

兄や姉の賃金は上がるのに、私だけが終始上がらず、ずーと最低賃金のままだった。

 

 また、ある日、私の一番毛嫌いする毛沢東の妻である江青が作成したと言う忠誠舞(毛沢東に忠誠を誓う踊り)を工員達が仕事開始の前、朝一で強制的に踊らせると言う事をこのごますり書記が提案し、実行された。

私はそれが本当に嫌で、毎日どうやったら逃げられるかを考えた。

わざと遅刻したり、具合が悪いと言って座っていたり、踊っているふりをし、適当に誤魔化したりしていた。

踊りのフリ自体が非常に低脳で、踊りとも呼べない代物だった。

 ある日、私は普通のラジオ体操に変更した方が工員の健康に役立つと提案したが、政治第一で、ましてや上層部のご機嫌取り人間には通じなかった。

 その後、毛沢東が死去し、すぐにその妻の江青も逮捕された時には全民がドラや太鼓を叩いて大いに祝った物だった。

赤いドア

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病院ベッド

03

​入院と逃亡

 そうして、経済的、精神的、身体的の三重の苦しみの中、やっと1年が過ぎた時、私の体調に異変が生じた。

心臓音が大きく、心臓で身体が動いているのが分かる。

息が切れる。歩くのも辛かった。

 

病院で診察を受けた結果、風湿性心臓病と診断され、即入院となった。

恐らく、気が付かない内に風邪を引き、その風邪の菌が心臓の弁へ付着して弁の動きが鈍くなったと言う説明だった。

その病院の裏側に建つ、高級幹部のための病室への入院となった。

病室は3階で、食堂が1階にあるのだが、私の重症度から階下へ降りる事を禁止され、食事は毎回看護婦が運んでくれていた。

 

その病室は2人部屋で同室の患者さんは老年(多分60代)の高級幹部の女性だった。

表情が厳しく、怖い感じで最初は彼女との距離を取っていた。

いつも沢山の見舞い客が来る人だったし、お手伝いさんが常に彼女の世話をしていた。客が来ると必ず見た事もない美味しそうなケーキやお茶や菓子を持って来る。

 

親しくなってから彼女はいつも私にそれらをお裾分けしてくれた。

ベッドに横たわるだけなので暇を持て余し、2人で将棋などをして遊んだが、私は彼女の将棋の指し方に戦略があるのを見逃さなかった。彼女は、

「そう、将棋指しは戦争のやり方と同じで、高い所にまず陣取って先の展開を推測し、勝つと思ったら進み、負けると思ったら退避するのが基本だよ」これを孫子の兵法と言う。と教えてくれた。

多分、彼女は戦争に参加したに違いない。

 

私の見舞客は兄だけだったし、安月給の貧乏だったので菓子や果物など勿論ない。心臓には蜂蜜が良いと老女は教えてくれたが、そんな高級食品はとても買えない。飲むのは白湯だけだった。

それを知って、ある日、蜂蜜をプレゼントしてくれて私を感動させた。

 

徐々にこの老女の正体も分かり、非常に深謀遠慮のある人だと言う事も分かった。地頭が良いのだ。

徐々に、私に人生について、これからの生き方と言う事も教えてくれる老師のような人に変わって行った。

 数ヶ月が過ぎ、とうとう彼女の退院の日が来た。

お別れの言葉が “人生諦めてはいけない、

身内に火がある限り燃え続けなさい!”だった。

私はきっとこの言葉を忘れまい、と強く心に刻んだ。


 

後で知った事だが、彼女に病気はなかった。

文化革命で殆どの幹部たちはありもしない罪を被せられ紅衛兵に批判会に連れ出され、街を引きづり回され、拷問に掛けられる。

その屈辱に耐え切れず自殺した幹部は無数にあった。

彼女はそれらの紅衛兵から逃れるために入院したのだった。

 

私はそれから1ヶ月ほどしてから退院したが、入院費用も出せない兄が一計を案じて、夜中に壁を越えて逃げろ、俺が下で待ってると言う。

要するに費用払えないから夜逃げしろと言うのだ。

その前に身の回りの魔法瓶とか食器とかは兄が昼間に事前に持ち帰り、逃げる時、身軽に逃げられると考えたらしい。

 

住所も分かっているのに逃げられる訳はないとは思い至らず、単純に逃げられると思い込み、その通りに逃げ帰った。

その後、案の定、病院は工場まで追っかけて工場の責任者と話し合いをしたらしく、工場の社長が我々の窮乏が分かるからと毎月、少ない給料から生活に影響を来さない程度に月賦として差し引かれていたが、その内、面倒なのか、哀れに思ったのか、いつの間にか差し引かなくなり、病院側の催促もなくなった。

 

 古き良き時代だったと兄は後年感想を述べたが、確かにそういう時代だった。

警察に通報するでもなく、罪に問うでもなく、裁判に掛けるでもない。

今のように金だけが唯一と思う風潮ではなく、人こそが主体だった。人こそが大事だったのだ。

なきゃないでどうにかなるさ、と言う貧乏人には

生きやすい時代だったように思う。

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04

犬殺しジジイ

 工場で働き出して1年ほどして、工場内で少し大きめの部屋をあてがわれた私たち一家は、若干こざっぱりした公団のような煉瓦立ての2階に引っ越した。

日本の6畳2間と言う感じだろうか。床はコンクリだ。部屋のみで台所もトイレも皆んな共同である。4家族で一つの台所と2つのトイレを使う。

 

この台所が厄介で、薪で煮炊きする。日本では当時すでに家庭に炊飯器はあったし、ガスもあったから薪の火の起こし方など分からず、最初は手を焼いた。

工場では、優遇してくれて薪の前に使う油木と言う細い木を我々だけに手配してくれた。

 

これも使い方が分からず、最初に新聞紙を燃やし、そこに少量の油木を上に置くとすぐに燃えて、その上から薪を置くと言う順序なのだが、私は1ヶ月は持つと言われた油木を2日で燃やし尽くし後が続かず困った。

そうこうする内に、前に炒め物した家族の後から使わせてもらう事を思い付いた。

まだ火が残った状態だから、起こす必要がない。我ながら良いアイデアだった。

 

 外はまだ武闘が続いている。生産は停止して、食糧危機が迫っていた。

国は次々と経済縮小を発表し段々食べ物がなくなって来た。

その頃から、油は一人月100ml,米は月5キロ、肉月500g、布3メートルと言う具合に、配給切符が配られた。米はそう食べないので不満はないが、油が少なすぎて揚げ物はおろか、野菜炒めすら出来なくなり、お湯で湯がいた野菜しかできなくなった。

もう太った人は見かけなくなり、皆ガリガリに痩せ細って皮膚は見事にシワシワになって行った。

その時、餓死と言うのは突然に来るものではなく、徐々に緩慢に迫るものだと身体で知った。

母は40歳で脳梗塞から半身不随になったので

段々病状も悪化して、食事は私が食べさせなくてはならなかった。

 

前は普通に食べていたのだが、配給制になってから肉もあまり食べさせられない。

母は結構わがままで、少しでも良いから肉がないと食べられないのだ。

一口入れて肉がないと突然口が止まり、うんともすんとも動かない。

スプーンを入れて刺激しても時間は止まったままである。

 

私はイラつく。そうだ!食堂に行けばまだ肉片の炒め物があるかもとひらめき、食券を片手にダダダと階下へ降り食堂へ走った。

一皿残った肉を買い、再度母に食べさせる。

さっきの時間停止は何だったのかと思うほど、母は美味しそうに早口で食べ始め、その速さに私は忌々しくチェッと舌打ちした。この時、母、御年、59歳だった。

 

階下には犬おじさんとあだ名を付けた5〜60歳ぐらいのおじさんがいつ見てもキセルを咥えて、細く長い椅子の上に器用に体育座りして座っていた。

その家は一匹の犬を飼っていて、まだ成犬になりきれていない可愛い顔の犬だった。

私はそこを通るといつもいっときその犬と遊んでいた。

 

 ある日、おじさんが、嫌がるその犬の首に太い紐を無理矢理付けていたので、犬はキャンキャンと鳴き叫んでいた。

何事かと下に行くと、おじさんはまるで普通に家事でもしているような無表情さでその犬に付けた紐を太い木に括り付け始めた。

 

犬の声はギャンギャンと断末魔の叫び声に変わって行く。

おじさんは横井戸から水を汲み上げる仕草で、片足を木に踏ん張り、片方の紐をギューと思い切り引き始めた、片方の紐の先は吊るされ鳴き叫ぶ仔犬の首だ。

私は凍りついた。止めないと、と思いながらも声が出ない。

おじさんの力が強いのか、仔犬はすぐに鳴き止み、ぐったりした。

 

凍りついた私は突然、弾かれたようにおじさんの前に走り、紐を緩めようとしたが遅かった。仔犬はすでに死んでいた。

 

おじさんは、何もなかったかのように、私にこう言った。

「犬肉は美味いぞ、仔犬だから肉が柔らかい、これから毛を毟って今夜煮込むから食べに来ないか?」

 

私は初めてここでは犬はペットなどではない、鶏や豚肉同様、食う物だと知った。

その日以来、そのおじさんのあだ名を犬殺しジジイに変えた。

煙草爺

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爆竹

05

​パートナーとの出会い

 相も変わらず、食うや食わずの苦しい生活は続いた。苦しさの連続に時折り心は打ちひしがれ、荒んだ。

それでも夏、冬と季節は慌ただしく移ろいで行く。

 

そんな時、ハモニカ片手に兄弟で近くにある川の土手へ行き、春の〜うららの〜隅田川〜と日本の童謡を大声で歌うのだがこの厳しい現実と日本懐かしさのあまり、不覚にも涙が溢れて声にならず泣き崩れた事もあった。

 

それでも、私は私達をここまで連れて来た兄を責められなかった。

兄も心では後悔しているはずだ、その証拠にまだ若い兄はストレスで胃病になり、常に痛い痛いと背中を曲げて歩いていた。胃に良いと言う治療法は何でも試した。弟妹を思いやる優しい兄でもあった。

私が土手で泣いた時、彼は「苦労は買ってでもしろ、と言うじゃないか。

人生、どん底にあってこそ、精神は鍛えられるんだ。夜明けの前が一番暗い、前方には光あるのみだからもう少し耐えよう。」自分に言い聞かせるようにそう言って私を励ました。

 福州は海に近いが盆地のため暑くて寒い省都だった。

日本、台湾、東南アジアには船で行けたせいか金持ちの華僑が多い。

言葉は福州方言で、標準語を喋らせたら、笑ってしまうほど訛りがきつい。

 

 ある寒い冬、兄の友人である日本華僑の客が来た。

厦門(アモイ)にある華僑大学の学生だった彼の名字も我々と同じく林だった。よく聞いてみると同郷だと言う。

その人は後に私のパートナーとなる人だった。

 

兄が母の病気を治したい一心で、ある人からアモイにある特別な蛇が半身不随に効くと聞き、中国語が得意でない兄は、人を伝って、

この日本華僑の林さんに会いに行ったのがきっかけで仲良くなった蛇友達らしい。

 

 それから、ちょくちょく来るようになるになるのだが、いつも何の連絡もなくふらっと突然来訪し、ふらっといつの間に帰る風来坊だった。思えば、電話もなく、手紙は届くかどうか分からず、連絡のしようがなかった時代なので突然来るのが当たり前だった。

 

兄達二人は時折り酒を交わし、談笑していた。

その夜、3人でトランプ遊びをした。兄がルールを設け、負けた奴は手を思いっきり叩かれると決めた。

私は負けて叩かれたくなかった。相手達にどんなカードがあるかを予測しながらカードを出して行く。隣は兄で、前に林さんが位置する。

兄のカードをちらちら盗み見しながら、素早く次の一手を考えていた。

と、また次に首を兄の方へ向けた瞬間、私と兄の間にある空間に紛いもない、私自身が、もう一人の自分が無表情で無言、ただ静かにそこに座っているではないか!え?何だ何だ!?もう一度、目をやった時、その姿はもう消えていた。

ほんの数秒の出来事だったが、あれは決して見間違いでも、目がおかしくなったのでもない。

確かに自分の姿だった。質感もあったし、立体的で透明でもなかった。私だけが見えた光景だったのだ。

 

 誰にも言わなかったが、あれは何だったのか?とのちのち心で反芻しては不思議な感覚になった。一回目の神秘体験だった。

それ以来、時々、神秘体験をするようになった。

 

 工場では文革の最中とて、仕事が終わると週三回学習会を開催していた。

ただ、新聞記事を読み合い、内容を話し合うだけで、誰も本気で学習しようとは思っていないのでダラダラと読んで終わり!となるのが常だった。姉と一緒に先に家へ帰り、お茶を用意してさ〜行こう、とドアを開けた。

 

2階の窓から見えるのは、遠くの山々と広い空と眼前に広がる青々とした広い田んぼのみだ。

その時、何の予兆もなく突然私の口から「ここで義兄が死んだと言ったらどうする?」と姉に向かって口を突いて出た。

「何バカな事言ってるの!縁起でもない!」姉は怒った。

姉はここへ来てから1年後に工場の外に住む日本華僑である干協と言う青年と結婚していて、1歳になる男の子も設けていた。外から毎日工場へ通っていたのだ。

旦那である干協はまだ27歳で船員をしていた。

 

姉が怒った数秒後、階下に自転車のブレーキの音が聞こえて、すぐに「愛珠〜愛珠〜」(姉の名前)と呼ぶ声が聞こえた。

窓から覗くと2人の中年男が自転車にまたがって家を見上げている。知らない人だ。

 

「自分は干協の同僚で、ちょっと用事があるから一緒に舅の家に来てくれ」とだけいった。姉は怖がった。なぜ、旦那の同僚が来るのか?しかも二人で。

何があったのか?頭にはその質問だけががぐるぐる回っていたらしい。

「菊ちゃん、一緒に行って」そう言うと私達はそのおじさん二人の自転車の後ろに乗り、舅の家に急いだ。

何があったのかと聞いてもおじさんは何も答えない。

姉は不安になり、私に「菊ちゃんさっきなんて言った?まさかそんな事ないよね?」

と言うばかりだった。

私自身も混乱していた。さっき何であんな事口走ったのか?

誰に言わされたのか?答えは何も出ない。

 

舅の家に着いた途端、姑の泣き叫ぶ声が玄関まで聞こえて来た。やはりただならぬ事が起きたのだ。義兄は元々が酒飲みで、船出をする度に皆で酒を煽っていたと言う。秋とはいえ、まだ暑い中、酒を飲んですぐに冷たいシャワーを浴びた途端、船上で倒れて即死だったと言う。

27歳の若さでいわゆる脳卒中だった。姑と姉は半狂乱になった。

 

 数日後、義兄の葬儀が行われ、荼毘にふしたその夜、姑の家で皆が集まって食事会をした。

姉は茫然自失状態だったため、1歳の甥っ子は私が世話をしてご飯を食べさせていた。部屋の玄関に通じる大きいドアは開かれたままである。

 

突然、甥っ子がおぼつかない足ですっくと立ち上がり、ドアに向かって

「パパ、パパ」とまるで見えるかのように指差しながら叫んだ。

あ〜義兄が帰って来たのだ、きれいな魂には霊が見えるのだ、と私は固く信じた。

 

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06

​結婚

 時々、ふらっと来ていた林さんはその内、来訪が頻繁になって来た。

明らかに今はすでに兄目的ではなく、その目的は私に変わって来たのは誰の目にも分かるようになり、兄はそれを喜んだ。

心臓病を持つ妹を良い人に嫁がせ、少しでも長生きさせて幸せになって欲しいと願っていたのだ。

 

私達は自然とお互いに下の名前で、斯英(シエイ)愛菊(アイキク)と呼び合うようになり、特にどこへデートに行くでもなく、映画館へ行くでもなく、束の間の時間を近くを散歩したり、読書の感想を言い合ったり、トランプ遊びしたりして過ごした。

 

 話の端々で徐々に彼の親が日本では金持ちで坊ちゃん育ちだと言う事が分かってきた。

ある日、彼が持っていた中国では見た事もないデュポンと言うブランドの重い金属ライターを兄が誤ってコンクリの床へ落とした。

すると兄が謝る前に彼は、「あ〜平気平気、旧い物が行かないと新しい物は入って来ないから」と言う意味を中国語ですかさず言って私を感心させた。

心の広い、男らしい人だとの印象を強く私に与えた。

普段は口数も多くなく、穏やかで優しい感じの人だったからその印象は余計に心に刻み込まれた。

 

さすがに二人でどこにも行かないのを見て、兄は二人でアモイに遊びに行けと汽車の切符を買ってくれた。

アモイには彼の同級生がいるのでその人を頼って行った。

当時は珍しい乗用車で私達を乗せて観光地巡りなどさせて貰ったが、その時、彼の大事な例のデュポンのライターを紛失してしまう。このライター

は結局彼とは縁がなかったのだ、とうとう旧い物は彼の元を去って行った、次の新しい物はいつ何が現れるのだろうか。

 

 アモイには鼓浪島(コロンス島)と言う小さくて美しい島がある。

そこへ船で渡り、島内を巡るのだ。昔、富裕層が建てた別荘や建築物が外国の景色に似て異国情緒の雰囲気のある村になっている。

途中、アイスを食べながらそぞろ歩くと、そこかしこに写真屋さんが商売していた。

アモイの街を背後に記念撮影しようと数人が並んでいたので我々も並んだ。しばらくすると写真屋が次の人!と呼ぶので我々かと思ったら別のカップルだった。そのカップルは確か、我々より後に来たはずだが…、と訝しんだが、まっいいか、と私は残りのアイスを食べて待とうとした。

だが、彼は突然気色ばんで、顔を真っ赤にして写真屋に食ってかかった。

順番待ちだろう、何でコイツらを先に写すんだ!と激怒した。

私はなぜこれほど怒るのか理解出来なかった。頭から湯気が出るほど、カッカした彼を見て少しがっかりしたし、ほんの少し彼の心の内を垣間見た気がした。

 

 彼が大学を卒業する頃、文革はまだ終わらず、知識分子は共産党体制から排斥され、殆どの卒業生は農民の再教育を受けるためと言う美名の下、田舎や過疎の山へと追いやられ、仕事はなく、農民になるしかない状況だった。

 

彼も同様、福建の武夷山と言う、今でこそお茶と美しい観光の名所として知られるが、当時は世から隔絶された、本当の深山幽谷の中へ強引に配置された。

 

虎、猿、蛇、イノシシは当然のように生息し、その中に申し訳程度に人間が混じると言う具合だった。山を降りられる車や道路などある訳もなく、険しい道なき山を徒歩で降りるなど年に一回あるかどうかと言う仙人のような生活を強いられた。

 

さすがに飄々とした風来坊の彼でも、これには参ったらしく、徐々に精神が病んで来た。私の家に来るのも遠のいて、しばらく会えなくなった。

 

所が、半年ほど経ったある日、彼がまたひょいと現れて、福州の街へ降り立った。武夷山から下山して汽車で来たのだろう、全身埃だらけで汚い格好で来た。これから直ぐに天津へ向かうと言う。

汽車で天津までまた丸1日半は掛かる。どこへどう口聞きをしたのか仕事の配置が天津に決まったと言う。山から出られる事自体、奇跡なのになぜ、都会へ行けて仕事があるのかは謎のままだった。

座席が暖まる間もなく、彼はすぐに又旅立って行った。

 

 2〜3週間して、彼が今度はこざっぱりした格好で家へ来て、正式に私に結婚を申し込んだ。

仕事先が都会へ決まり、これで嫁を娶れると考えたのかも知れない。

彼が29歳、私が24歳の秋だった。

レッドランタン

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中国のお茶

07

貧窮からのプレゼント

時は容赦なく過ぎ行くのに貧窮は改善される兆しもなく続く。

日本から家族で福州へ移り住んで、いく年過ぎたろうか。

環境は人の面貌を変えると言うが、24歳になっても奥手で、鏡を見る事が一番嫌いな自分の面貌は他人から見て大きく変わったろうか?

 

世間では貧乏をほとんどの人が忌み嫌い、不幸と同義語と考えているような節がある。貧乏から這い上がる、抜け出る、克服する。まるで、悪魔に取り憑かれそこから必死で逃げるイメージしかない。

 

生老病死から逃げたいブッタは出家し、苦労の末悟りを開き解脱した。

苦しみのこの生の中に多分貧乏、貧窮は含まれていたのだろう。

だが、何でもそうだが、人は他と比較して初めて辛い、苦しいと思うのだと思う。人は苦しみ、辛さのまさに渦中にいる時、あまり苦しいとは感じない物である。

過去を振り返り、辛かった、苦しかったと言うのが多い。

 

ご飯に醤油を掛けて食べる日が多く、たまに食堂で買ったおかずが少量付くこともあったが、総じて栄養失調の気があったのか、私は痩せっぽちのままで、体調はいつも悪く、エネルギー温存のため、家に篭って読書するしかなかった。

兄は後日、姉に「菊が文句も言わずご飯に醤油を掛けて食べる姿を見るのは辛かった」と語ったと言うが、本人は言う程辛くはなかった。

もう少しお金があったら楽だなぁとは思ったが

死ぬほど辛い、苦しいとは思わなかったのだ。

 

周囲の人の貧乏度も五十歩百歩で、穿くズボンが買えず、夫婦で1本のズボンを穿き、交代で外出していた人もいたし、骨付き肉をご飯に乗せて食べる金持ちもいたが、貧富の格差は大きくなかった。

みんなで渡れば怖くない式で、卑屈ささえあまり感ぜず済んだのは幸いだった。

 

その頃から、激しく降る雨が好きになった。寒い日、窓の外の篠突く雨をじっと見るのが好きになった。好きと言うより幸福だと感じる瞬間だったのだ。

貧乏ながらこうして雨風を凌げる家がある、あったかい布団があったらもっと幸せだ、と言う幸福感の中に浸れるからだ。

 

決して、現実逃避でも強がりでもなく、年老いた今ですら、その幸福度は心の中に色褪せず残っていて、雨が激しく降るほどにその幸せ度は比例して増して行く。

 

それは外から与えられた物ではなく、身体の内側から自然に湧いて来る汲めども尽きない泉のような何かであった。

 

それを私は後に貧窮からのプレゼントと名付けた。

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08

俺の家族は世界一

そうこうしている内に結婚の準備は進められた。

準備と言っても私が彼のいる天津へ行くだけである。持ち物など殆どない。

行くには汽車賃が掛かる。私の当時の月給は20元。兄が25元。

食べるだけでも不足していた。

姉は結婚して家を出ているので、実質病気の母を抱え、兄、弟、私とで45元で一家を賄っていたから余計な出費は出来ない。

 

兄は私の汽車賃をどうにかしようと親戚中に借金を考え、やっとゲフンと言う叔父から40元を借りて、私を天津へ送り出してくれた。

 

1973年10月、私は6年間住んだ福州を離れ、家族に別れを告げて一人車上の人となった。

 

文革はまだ続いていたため、質素を旨とする風潮はまだ幅をきかせていた時代である。結婚式など到底考えられなかった。ただ、お互いにこざっぱりした色気のない人民服を着て近くにある民生局と言う機関へ結婚登記を済ませ、あとは同僚へ少しの飴を配るだけであった。

彼は天津の外国語学院の教師と言う職を与えられていたので、そこの宿舎であるレンガ建の3階が我々の新生活の場となった。

 

ある日、彼は新妻である私に、これからの生活費だ、と言って私にどっさりした包みを渡し、これで賄ってくれと言う。

開けるとそこには見た事もない赤い百元札ばかりの厚い札束が入っていた。

数千元もあったろうか、見当も付かない額である。

十元札しか見た事のない私は目が眩んだ。つい、これで何が買えるの?と私はバカな質問をしたものであった。

 

私の頭に咄嗟に、これで福州では買えなかった砂糖が、卵が買えると閃いた。

数日後、私はそれを実行に移した。砂糖と卵を買い、中にゲフンに返す40元も含めて200元ほど隠し入れて知り合いの鉄道員である張さんと言う人に託し福州へ持って行って貰った。

これで、兄達は楽が出来る。

母の動かない口もこれでパクパクと動くだろうと想像すると嬉しさが込み上げた。

 

 ある夕方、彼は「今夜は勧業場と言う有名な繁華街で外食しよう」と言い出し私を連れて行った。そのレストランは小さかったが、美味いので有名らしく混んでいた。

そこで初めて食べた事のないエビや串刺しと言った料理を見て、食べてびっくりしながら同時に泣けて来た。

 

福州の兄弟達の苦しい生活が思い出され、これを食べさせたい!と心底思うと涙が流れた。なぜ、私だけにこんな贅沢が許されるのか?と。

 

食後、今度は見すぼらしい私に服を買えと言う。彼は、沢山ある当時としては上質な山吹色の上着を選んで買ってくれた。私は上辺だけは一躍金持ち夫人になったのだったが心では砂糖や卵を買った時ほど喜んではいなかった。

 

 数日後、彼の南京大学で働く弟が我が家を訪れた。

日本へ帰る様々な手続きがよく分からず兄である彼に教えを乞うためだった。

これにはどう書けば良いのか?と色々聞いていたが、彼は「適当に書けば良いよ」と漠然と答えながら、タバコをくゆらした。

私は手作りのイカの塩辛を出しながら、なぜ、真剣に答えないのか訝しげに思い、弟が可哀想になった。弟はそれでも、納得して帰って行った。

 その後、私は彼に、なぜ、丁寧に教えて上げなかったのかと聞いたら、突然、激怒してベッドの上にあった枕やクッションを手あたり次第、私にぶん投げて来た。訳が分からず私は混乱した。

 

「俺の家族は世界一の家族だ!お前に何が分かる?俺の家族に口出しするな!」と叫び出した。

 

彼の家族を侮辱するなと言う事らしいが、私はただ、兄として手伝って欲しかったとだけ言い残し、泣きながら家を飛び出した。

 

 知らない土地では行くあてもなく、学校の運動場の椅子で暗い中じっと座るしかなかった。その間、私の脳裏にふと、一緒に旅行したアモイでの記念撮影時、おじさんに激怒した場面が思い出され、大変な人と一緒になったのかも知れないと不安になった。

表面は穏やかだがその本心がどういう人なのか、この時はまだ知る由もなかった。

 

1時間ほど座っていたら、やっと彼が迎えに来た。怒りは収まったようだったが、なぜ激怒したのか何の説明もなかった。

中国の将棋をプレイする

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青と白の陶磁器

09

​瞬間湯沸かし器

 私達夫婦の喧嘩はすぐさま全校の先生達の知る所となり、色んな先生達がさまざまなアドバイスを教えてくれたりした。

ある男の先生は、主人の学校での奇異な行動を言う。

 

先日、自分に女の子が誕生した際、教員室で子供の命名の話しになったらしい。

その時、彼が子供の命名をして欲しいと主人に頼んだと言う。

主人は色々な名前を挙げて話しは盛り上がった。

と、突然、主人が何の訳もなく怒り出し、机上にあった熱いお茶の入ったコップの中身を彼の顔へぶち撒けて先生達全員は凍り付いたと言う。それはその場にいた女の先生も同じく奇異に感じた事件だったらしい。

本当に怒る理由が思い当たらず、皆が皆、狐につままれた感覚だと証言した。

 

その時は、何かその先生が気に食わない事を言って主人を怒らせたのだろうと私は推測したが、のちのち、彼との長年の生活の経験の中で、いつの時も彼の怒りには微塵の理由もなく突然である事が分かった。

彼の怒りが収まり穏やかになった時、どうして怒ったのかと私がその都度理由を聞いても絶対にその理由を言う事はなかった。

自分でもなぜそうなるのか判らなかったようなのだ。

私の当初の推測が間違いである事を思い知らされた。

 

 

 数ヶ月後、私は懐妊した。2ヶ月だった。

我が家には金持ちしかないと言うミシンがあったので時々、そのミシンでズボンの裾を直したり、

赤ちゃんの服を作成したりしていた。

 

階下にはスペイン語の男の先生が住んでいて、ある日、私にズボンの破れを直して欲しいと持って来た。私は快く受けてミシンを踏んでいた時、主人が帰って来て、これは誰のズボンだと聞いた途端、瞬間湯沸かし器の発作が始まった。

いきなりそのズボンを切り裂き、妊娠中の私を殴った。

 

幾ら何でも理由もなくなぜ怒るのかと私も口答えしたら、彼の怒りは頂点に達し、鬼の様な形相になったのを機に、私は口答えは絶対に許されないと知って以来、彼を怒らせる言動をしないよう極力注意した。

そのため、私はいつもびくびくしていた。

 

 後に、姑と同居する事になり、彼が1〜2歳の頃、東京で小児麻痺に罹り、40度の高熱で入院し、曲がった足も手術したと言う話を聞いた時、

その時、初めて脳の後遺症がこの激怒の病因かも知れないと思い至った。

 

 妊娠4ヶ月目に入ったある夜、私は突然お腹に激痛が走り、病院へ入った。

結果、切迫流産でその子は流れた。

ミシンを踏み過ぎたなどと主人は言ったが、そうではなく、元々、妊娠初期から赤ちゃんの形を成していなかったと医者は言う。

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​10

唐山大地震

 数ヶ月後、直ぐに二番目の子を妊娠した。48歳になる今の子である。

健康で産まれてこい、良い子になるぞ、と毎日呪文のように唱えた。

この子は神に授かった子で、自分の子ではない、神様の代わりに育てるのだと自分に言い聞かせ、子育ての本を山ほど読み、臨月に備えた。

 

 神の子は5体満足で健康に産まれ我々は喜んで、ランランと名付けた。

その日から私は子育てのみに全身全霊を傾け、常にこの子の将来に今は何をしたら良いのかを考え

行動に移した。この子が3ヶ月の暑い7月末、あの歴史に残るマグニチュード8、2の唐山大地震に見舞われた。1976年の事だった。

 

震源地の唐山と天津の距離は200キロ。大地震は天津にとっても激震だった。

夜中3時、熟睡の中、私は大揺れの船の中にいて、そのための吐き気で夢から目覚めた時、地球が激しい音を立てて揺れているのを実感して身震いした。すかさず、頭の上の小さな窓を見上げた。外に雷のような閃光が走ったと思ったら、全市が停電になり、真っ暗闇に包まれた。

と同時に、一瞬、前の3階建てのレンガの建物の壁が3階から1階までスローモーションのようにゆっくり綺麗に剥がれ落ちたのがうっすらとした暗闇の中で見えた。

壁だけがなく、中のベットや棚やタンスなどだけが残ったそれは丸で未完成のミニチュアハウスを見るようだった。

 

咄嗟にまだ眠る主人を揺り起こし、ベビーベッドに寝ているランランを抱いて逃げるよう促すも、

彼も動揺したのか、足を床に下ろした途端、揺れの酷さで足を取られて思い切り転ぶが、それでも必死でランランを抱き抱えてドアの外の廊下へ

飛び出し、ダダダと階下へ降りて行こうとしながらも、また戻り、お前も早く来いと促す。私は頭では百も承知しているが、いかんせん、肝心の足が固まって動かず、ベットの上に座ったままだった。

揺れはもっと激しくなり、ミシンの上に置いた花瓶や置物が音を立てて落ち、ガシャンガシャンと恐ろしい音がそこかしこで止まない。

 

その頃、私の足はやっと脳の命令を聞いたのか動き出した。

我が家は18ヘーベーしかない一部屋で、トイレも台所もない。トイレは共同で、台所は狭い外廊下で豆練炭を起こして煮炊きしていた。横には、練炭を山のように重ね置いていて、白菜の山も雑然と置いてある。

 

それらが巨大な揺れで全廊下に散乱し、逃げ場を塞いでいた。丸で、走り幅跳びの選手のように、それらを飛び越え飛び越えて脱兎の如く階下まで逃げた。

 

他家はまだ誰も出ていなかった。ランランは主人が抱いて門の外に出ようとした時、小雨が降り出したので、彼は一瞬、子供が濡れると怯んで門内に留まった。

と同時に、誰が置いたのか二階廊下の大きな壺が揺れで外に出るのを躊躇した彼の目の前に落ちて砕け散った。子供と彼はこの雨で助かった。

 

揺れが徐々に収まった時、地震に慣れない中国人達は、やっとの事三々五々廊下に出て来た。余りの激しい揺れに、驚いたのか誰も反応が尋常ではなかった。

 

隣の旦那は、裸のままパンツ一つでタオルで汗を拭きながら、なぜか首にカメラを下げて、「クソ暑いな〜」と一言言ったかと思うと、途端に踵を返して屋内に入り、「早く逃げろ!」と言うなり、自分だけカメラを引っ提げて逃げた。中に子供3人と奥さんを残したままだった。

 

また、その隣は中年の夫婦のみで、奥さんがゆっくりした動作で練炭で火を起こし始めかと思うとブツブツと何やら呟いている。ドアが開かなかったから逃げるのが遅れたのは主人のせいだとか、こんな時火が重要だとか言っている。

 

前の部屋の人は子供1人で、ご主人は地震が収まっているのになぜか、開かないドアの前で犬が自分の尾を追っかけるようにひたすらグルグルと回っている。奥さんは子供をしっかと抱いてベットに座ったまま、その様を放心したようにただじっと見詰めている。この夫婦は後に離婚した。

 

下の80歳になるお婆さんは、泣き叫びながら、自分はこの歳になるまで、こんな災難に遭ったことはない、これは神の怒りだ〜とか言いながら走り回っていた。

 

我が家にはヒビが入り、住めない家となり、暑い夏の事とて、暫時、学校の運動場にベットを置き、そこで寝泊まりした。

 

ランランのオムツを変え、ミルクを飲ませて暑い日差しから逃れるべく、講堂の中へ子を抱いてずっと立ち尽くし、陽が落ちるのを待つ日々だった。

 

その内、運動場では感染病が蔓延し始め、我々はランランが感染する事を恐れてどこかへ逃げなければと画策し始めた。

 

彼は自転車で走れない瓦礫の中を縫って連日汽車の停車場まで通い、どうにか列車の一等席の切符を手にし我々は急ぎ福州へ行く列車に乗り込む用意が出来た。

 

 私は当時、社会科学院と言う機関で働いていたので、我々が職場を離れる事には会社の承認も必要だった。だが、表面的には革命的な職場の上司は、この緊急時に、街の復興に力も貸さず、逃げるとは反革命的だと言うレッテルを私に貼った。

 

私の反骨精神がここでも頭をもたげた。何を言うか!子供が感染して死んだらお前が責任持つと言うなら残りもしよう、その前にその誓約書にサインをしてくれと迫った。

上司は、仕方なく会議を開き、皆の承認を得られてめでたく離れる事が出来て車上の人となった。

 

 一方、福州の兄達のゴム工場ではこの地震の情報で、直ぐに遺体入れのためプラスチック袋の膨大な生産が始まった。兄は天津での犠牲者が2万人と聞いて、我々夫婦はきっと瓦礫の下に埋まっていると思い込み、すぐさま、天津までの汽車の切符を買い、私達を掘り出すための鍬を手にして待機していた。

その直前の我々の帰省で、兄は安堵し、生きている事を共に喜び合った。

 

 この大地震は唐山、天津、北京と言うそれぞれ約200キロの距離にある。

この三角地帯に壊滅的な被害をもたらし、震源地唐山は全域瓦礫の山となり、当時の共産党政府によると犠牲者は24万人と公式に発表された。

が、政府のあらゆる災害の犠牲者は小さく発表されるのが常である事を人民は知っている。

恐らく、被害者は少なく見積もってもその2倍はあっただろう。

更に、当代の指導者、毛沢東の妻の江青(こうせい)はこの恐怖の大地震を「中国には10億の民がいる、24万死んだとてどうと言うことはない」と

憎々しげな顔で公然と言い放って、全ての人民を敵に回したのだった。

 

 我々親子三人はその日から、3ヶ月余りを福州で避難生活を過ごす事になる。

シングル餃子

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青と白の陶磁器

​11

​毛沢東の死

 暑い一夏を福州で避難生活をしていて季節は

いつの間にか涼風立つ10月に入っていた。

初旬、突然、毛沢東死去のニュースで全国が騒然となり、我々にも追悼会に参加すべく急遽帰れとの通達が入ったので、5ヶ月になった娘を連れて再び天津へ舞い戻った。

 

 北京、天津はどこの機関でも皆、悲しげな顔で事務をこなしていた。

追悼会当日、天安門の広場に立った百万の国民達は「身内でもこんなに泣かないだろう」と思う程に垂れる長いヨダレもそのままに大声で抑揚を付けて泣き叫ぶ。

こんな時こそコストなき忠誠心を表現する良い機会なのか、我も我もと、泣き声よ、天にも届けとばかりに泣き崩れた。

 

我々も当然、悲しい顔を装い追悼会に参加はしたが、

その実、心では冷めきっていた。

私は心の内でこの1976年一年、周恩来から始まり、朱徳、毛沢東の三代巨頭が相次ぎ死去したのを数えて、時代はきっとこれで大きく変わるだろうと考えていた。

 

 果然、毛沢東死去後1週間も経ったろうか。党内では派閥争いが激化していて、無血のクーデターが起こされ、妻の江青を頭とした悪名高い四人組が逮捕された。

失脚のニュースが流された時、誰も彼もが、飛び上がって喜び、夜と言うのに、直ぐさま、ドラや太鼓をガンガン鳴らしながら、群衆はデモのように街を練り歩いた。

 

それ程、国民から稀に見るほど忌み嫌われた人間だったのだ。

国民を人とも思わず、威張り腐り、悪政の限りを尽くし、塗炭の苦しみに追いやり、自分だけは贅の限りを尽くした稀代の悪女だった。

 

女王然とした江青を死刑にしろ!と人々は口々に叫んだ。

その後の裁判でその通り江青は死刑判決の執行猶予を下された。

それからの牢獄生活の苦しみに耐えられなかったのか、一世を風靡した彼女は牢獄のトイレで首吊り自殺をした。往年の上海の三流映画俳優だった77歳の江青は毛沢東の妻と言う名声を持ったままその哀れな生を終えた。

 

その時、真っ先に私が実行したのが、ラジオでアメリカの声と言う番組を堂々と聞いた事だった。

 

文革中、夜中にこの番組を隠れて聴いたと身内に摘発され反革命のレッテルを貼られて牢獄に入った人がいたので、外国のニュースを知りたかった私は、それまで我慢していたラジオを、今日を境に聴ける!

晴れて普通のボリュームで聴けたのは嬉しかった。

 

 四人組逮捕で彼ら四人は権力の座から徹底的に引きづり下ろされた。

それは人民が圧政の毛沢東主義から脱却し意識転換した瞬間でもあった。

 翌1977年、政府は正式に文化大革命の終息を発表した。

 

 丸10年、中国社会は激しく荒れ、乱れ、実質、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した。不正式発表では犠牲者は3000万とも4000万とも言われた長く、残酷な文革がこれでやっと終結したのだ。

 

 思えば、私達はまるで最初から好んで満水の洗濯機の中に飛び込んだかのように、常にその渦中にいてグァラングァランとあっちへ行き、こっちへ転がされ翻弄され尽くした、止めどなく辛く苦しい10年だった。

 

これは夢ではない!本当に終わったのだ!

私の身体は一気に萎んだ風船のように萎えた。

これから中国はどこへ行くのか?世界はどう動くのか?がこの時代以降の私の思考の主題となった。

 

 それでも、庶民の苦しい現実生活は続く。我が家は、先の地震でヒビが入り危険住居になっていたが、構わず住み続けた。天津の冬は寒さが厳しい。

10月も中旬になるとコートが必要になる。その日も寒かったので、10時ごろ早々とベットに上がり、布団に包まりながら毛糸を編んでいた。

 

ベットの下を底上げして、我々二人が中に逃げ込めるよう地震対策はしていた。

と、突然、またしても今度は大きくゆっくりとした、まるで大船に乗ったかのような二回目の大地震が襲った。揺れはゆっくりと長い!

我々は機敏に行動し、彼は先にランランを抱きベットの下へ潜り込んだ。

続けて私も入ろうとしたが、入り込む余地がない。彼が子を抱いたためか身体が斜めになって、私はその斜め部分に肩までしか入れず、頭隠して尻隠さず状態で、大きな揺れに身を任すしかなかった。

彼に、もっと中に詰めて!と叫ぶと、じゃ、俺の足が出るよ。何?足ぐらい何さ、私は半身外だよ、と激しくなる揺れの中、ベットの下での喧嘩が始まった。

 

地震は収まったが喧嘩は収まらなかった。

これを機にこの人は自分さえ良ければ良いのだと不満に思うようになった。

 

 余震が怖くて、しばらく家から離れて様子見しようと、皆が近くの道路へ立ち尽くした。と、災難は容赦なく続き、今度は大雨がジャージャー降り出した。

子供だけでも濡らさないよう彼が傘とミルクやオムツを家まで取りに行き、道に立ったままミルクを飲ませたりオムツ替えたりして2時間余りを過ごした。

雨水は濁流となり、道路脇をゴーゴーと流れる。靴はぐっしょりに濡れて冷たく皮膚感覚がなくなっていた。

すでに、夜中になっていて、雨は冷たい雪に変わった。

 

今夜どこで寝たら良いのか、それだけを考えた。

幸い、ベビーカーがあったので子供の寝床だけは確保出来たが、防寒対策は万全ではなかった。その時、近くに住む東京帰りのりんさんと言うおじさんが、心配して見に来てくれた。

 

取り敢えず、今晩だけでも自分の家に住んだら良いと言ってくれたので

我々三人はすんでの所で助かった。

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​12

香港への移住

 翌日からの家なき我々はどうしたものかと路頭に迷った。

 

 中国では国の政策で個人が翻弄されることはあっても、災害に遭った際、個人が国の助けを享受する事などあり得ない。

宣伝では、国はどれだけの人を助けたかと大いに報道はするが、我々周りの人は誰一人として、その助けを受けた者はいなかった。

 

どんな災難に遭おうとも、自分や家族で解決するしかない厳しい国情なのだ。

中国で軟弱な人間は自然淘汰される。命には価値がない。

ここでは誰もが強く、へこたれない精神を持たなければ生存できなかった。

 

我々は子を抱えてその夜の寝床を探して彷徨い、寒い校庭に立ち尽くした。

そこへ、偶然、教え子である、董黎民(トウ レイメイ)と言う男子学生が一群の学生を引き連れて「先生!」と呼びながら近付いて来た。

 

聞けば、彼らは先生達を助けようと、近くの空き地に藁葺き屋根の掘立て小屋を作っている最中で、丁度一軒空いてるので、そこで住めば良いと勧めてくれた。

行けば、そこは確かに一軒だが、2家庭が住めるよう真ん中で半分に仕切られていた。半分側は例のスペイン語先生一家が住むと言う。

 

屋根は余震が来て崩壊しても生き埋めにはならない仕様で藁のみで空が見えるスカスカ屋根で、床はでこぼこ土だ。

ベットと小さな机が一つしか置けない広さしかなかったが、それでも今夜住める寝床がある事に私は感謝した。

 

寒さ凌ぎのストーブを据え、翌朝の洗顔用の水を洗面器一杯用意して眠りに着いたが、寒さで凍えて眠れず、ランランを抱いて暖を取った。

夜が明けて起きると洗面器の水はカチカチに凍っていた。

ドアを開けると、前には巨大な穴があり、そこはいつの間にかゴミ捨て場になっていて、悪臭を放っている。

それでも、赤ん坊の世話は尽きない。毎日の汚れたオムツや下着を近くの川まで洗いに行くのだが、川の水は手が切れそうなほど冷たく数秒と浸けてられない氷のようだった。

真っ赤な手で洗濯物をゴミ捨て場近くに干すも、それも乾くどころか干した形のままで凍っている。

 

これでは、ランランの生存が危ぶまれると危惧した私は、住居環境のましな家の保母を探して、そこへ預ける事にした。

そこは暖かく、おばさんも人柄が良く安心して子を任せる事が出来た。

 

 2ヶ月ほど過ぎたろうか?ある日、去年一家で香港への出国の申請を出していたのを忘れていた我々は突然、国から許可が下りたと連絡が入り、

私達は狂喜乱舞した。

 

この状態ではとても生き延びれないと感じていたからその喜びはなおさらだった。

出国と言うよりは実質脱出であった。

我々は早速、移住の準備に取り掛かり、初夏の5月、列車で南方の深センへ向かった。

 

 今でこそ、大都会と言われる中国一の経済特区として持て囃されているが、1977年当時は、ど田舎の雑草しかないただっ広い空き地に過ぎない所だった。

そこから徒歩で国境の鑼湖(ローフー)を渡るとそこは香港だ。

 

我々の所持品は殆どなく、上質の掛け布団2枚だけが全財産だった。

香港へ行けばこんなのは安くて山ほどあるのを知らなかった。

私は9ヶ月になるランランを抱き抱え、彼は大きな布団袋に入った2つの布団を両手で重そうに引きづりながら鑼湖を渡った。

国境を渡り香港へ入ると、税関の官員の殆どがイギリス人で、我々移民達にしゃがんで待てと動作で伝えた。なぜ、立つか座るか出来ないのか、なぜ、しゃがむのか、屈辱的な瞬間だった。

 

中国共産党は我々移民者にはバス代としてたった5ドルの所持金しか与えられなかったし、香港では待つのにしゃがまされた。

私に取ってはどちらも敵でしかなかった。

香港では日本から姑と舅が迎えに来てくれていて、事前に我々が住むマンションも購入していたお陰で、香港での新生活はつつがなく始められた。

 

香港での毎日は驚きの連続だった。まず、物の豊富さ、ない物は何もない。

高層ビルの豪華絢爛は言うに及ばず、交通の便利さ、整然さ、食の豊富さ、文明的で礼儀正しい人々、スーパーと言う物も見た事がなかった。

なぜ、無人であらゆる商品が整然と並んでいるのに、泥棒がいないのか。

なぜ、皆、当たり前のようにレジまで持って行き、精算するのか?

誰もいないのに、こそっと袋に入れて持ち帰る人がいないのが不思議だった。

 

独裁政治の10年と言う月日が、如何に人を愚かにさせ、無知にさせ、変質させるに充分な時間であったかをここで思い知らされた。

 

 幸いにも住む家を与えられたお陰で、新生活のスタートは順調だった。

が、当然ながら今後の生活費は自分で稼がなければいけなかった。

彼は広東語が分からないため、日本語で働ける職と言えば観光客相手のガイドしかないのでそれに従事し、私は天津では一応、翻訳や歴史研究など

していて、日本外交史と言うタイトルの本も共著で出版していたので、どうしても文筆業が主にならざるを得なかった。人の紹介で現地のTV局でドラマや映画の翻訳を手掛ける事になった。

 

PCなどなかった時代で、毎日TV局へ通い、実際に翻訳するドラマや映画を脚本と照らし合わせて見て、録音したドラマのテープを家へ持ち帰り、

1〜2日で会話全部を正確に翻訳して、またTV局へ持っていくと言うハードな仕事だった。

 

最初は私の実力を測るためか、上司は簡単な日本の子供用アニメを私に与えた。

翻訳に問題はないものの、次に控える吹き替え部門からクレームが出た。

字数が合わない、画面の人の口数と字数が合わないため、吹き替えが難しいと言うのだ。それに、香港の文化を知らないため、言葉が大陸調で意味不明と言うクレームもあって、私は上司から暫く干された形になった。

早く言えば、解雇されたのだった。

 

実力不足の自分が悔しかった。圧倒的に知識が不足している自分が情けなかった。

香港のTVは当然の事、全部広東語だ。テロップには標準語が出る。

それを利用して、私は翌日から、毎日TV浸けになり、テロップばかり見て、広東語を覚えようと努力した。他人と広東語で喧嘩できるまで言葉を覚えるのだ、期間は半年以内だと自分に言い聞かせて、本当に半年で流暢な会話が可能になり、人と早口でディベートする迄になった。

同時に、図書館にも通い始めて、読書三昧になり、それが老年になった今も習慣となり、続いている。

伝統的な提灯

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中国の茶道

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怒涛の翻訳業

 広東語の読み書きも多少の自信が付いてきた頃、私は試しに再度TV局の上司、王さんへ翻訳の打診をして見た。

 この頃は、日本のアニメやドラマ、歌などが続々と香港市場へと参入して来た時期だったので、王さんは人材が欲しいと言い、すぐにOKを出して正式に仕事が始まった。

 

だが、初っ端から頂いた仕事は「木枯し紋次郎」と「大奥」言うドラマだった。

前者は浪人が旅する半時代劇ぽいドラマ、「大奥」は時代劇そのもので初心者の自分には半端なく荷が重い。

その時代、その風来坊人物の味を出そうとすると、1〜2日では書けない代物で、頭を抱えてしまった。

 

すぐに向かった先が台湾の映画館だった。台湾は時代劇を多く制作する。

どう言う字幕が書かれているのかを参考にすべく見に行ったのだった。

日本の殿様、公家、旗本、武士達の言葉遣い、言語表現と中国大陸のそれとの違いの表現方法や時代考証もしなくては書けない。

 

 しかも、1〜2作では済まず連続ドラマで、何ヶ月も続く息の長い仕事だった。

初めての仕事は良い作品を出したいと思っていたのだが、そんな悠長な事言っていられる状況ではないし、その実力も今の自分にはない。

崖っぷちに立たされて、後には引けず、時代考証など書きながらでもできる、えい!破れかぶれだとばかりに開き直り、徹夜して書き上げたが、当然翻訳とは呼べない、直訳でしかなかった。

それでも、毎日子育てと同時進行で、恥を掻きながら騙し騙し悪戦苦闘しながら書いて行った。

 

 当初は毎日分厚い日中、中日辞典に頼りながらの格闘で、その皮の表紙は破け、

捲れ上がり、コーヒーのシミも付き、ぼろぼろになりながら使い倒した頃、

中の説明や訳が微妙に違っている事に気付いた。

日本語でこう言う訳はおかしい、中国語で今こう言う言い方はしない、

と言う箇所がかなり見つかった。私はその度に、その箇所に、自分で正確だと思う語句を書き足し、訂正して行き、3年も経つとその辞典はまったく役に立たなくなった。

今でも、その辞典は自分の歩んだ歴史記念として手元に残してある。

 

石の上にも三年と言う諺は本当だった。

がむしゃらに書き始めて2〜3年も経った頃、翻訳の難しさを改めてしみじみと味わった。

 

映画、テレビでは決められた字数が違うし、書き方やその手法も違う。

テレビドラマでの吹き替え版では、次に構えて待ってる吹き替え組の事を考えて、俳優の口元を見つめ、なん言喋ったかを常に1、2、3、4と数え、大体の言葉数を訳語で書かねばならない。

字幕だけの場合は最大8文字で表現する。

原語に忠実なのは当然だが、かと言って直訳にすれば、それは死んだ言葉となり、聞く、見る人の心は動かせない。

映画の字幕では、字数は最大12文字。観客が画面を楽しめ、且つ鑑賞の邪魔をしない程度に瞬時に理解できる言葉数がそれだった。

 

ヤクザと刑事が話す場面、医師から癌を言い渡される患者の心のざわめきと葛藤、酒乱の父との大喧嘩、などなど、人の様々な心模様を文字で表現するのは、小説を書くに匹敵する、生きた臨場感ある表現をその国の言葉で追求できなければ本物の翻訳とは言えない。

 

 その秘訣は教えられて出来る物ではなく、さまざまな失敗や挫折から身体で、体験で覚えていく物だと分かるようになる。

ただ、両国の言語が出来れば書けると思うのは、その道を知らない人の言う戯れ事か傲慢でしかない。

 

 TVドラマの翻訳は日常的に続いた。

先に日本のさまざまな人気アニメにドラえもん、アラレちゃん、おしんと次々と切れ目はなかった。

脚本を見るたびに、私は橋田壽賀子がどんどん嫌いになって行った。

彼女の書く脚本は、無駄に言葉が多い。特におしんがそうだ。そのせいで、私の書き上げる原稿も厚くなり、時間も倍になる。そのくせ、翻訳料は同じなのだ。毎回、ぶつぶつ文句言いながら書くしかなかったから、嫌い度はいや増して行くの

だった。

 

 合間に、当時の日本のタレント達も続々と香港でのコンサートを開くようになった。先にアルフィー、次に沢田研二、三輪真弓、西城秀樹達が訪れ、その度に私は駆り出され、記者会見だ、リハーサルだ、歌詞の調整のための打ち合わせだと言う仕事が爆発的に増えた。

 

本番では1、3番しか歌わないから2番目は翻訳不要だとか、テレビでのテロップはここから出してくれとか、の打ち合わせだったり、リハーサルにも来てくれと言われたりした。

 

特に印象的だったのは、沢田研二だった。意外に背丈が低く、話し方がべらんめー調で、仕事に熱心、プロ意識の強い人物だった。リハーサルの時、照明係が適当だったらしく、歌の途中で、激怒し、「ゴラ!オメーらただ飯食いに来たのか?適当にやってんじゃねーよ。プロ意識はないのか!」と怒鳴っていたのが印象的だったが本人のリハーサルは真剣勝負そのものだった。

 

それと対照的なのが西城秀樹だ。性格の良さが突出した人で人当たり良く、物腰も柔らかだった。私との打ち合わせでも、なるだけ、私の仕事を増やしたくない気遣いがあったのか、複雑な翻訳箇所は外してくれたし、仕事の話だけではなく、香港での観光はどこが良いですか?などと言う普通の話もする気さくな一面も見えた。

 

当時は五輪真弓は香港でも大人気だったためか、1月の寒い夜に屋外でのコンサートを開催した。当時、雪の降りそうな寒さで、私は仕事柄、毛皮を着て一番前席に陣取っていた。舞台裏では寒さに震えながらドレスの上から毛皮を羽織っていた彼女が、本番になって敢然と毛皮を捨て、薄いドレス一枚で舞台に立った途端、冷たく吹く風すら味方に回し、薄いドレスを優雅に靡かせ、声に微塵の震えすらなく数曲続けて熱唱したのには驚きと同時にそのプロ意識に敬意すら感じた事だった。

 

当時、映画制作で名を馳せたジャッキーチェンも日本進出を果たし、日本語翻訳者を探していたようで、私にその白羽の矢が当たり、彼と契約を結んで字幕を書き始めたのもその時からだった。

 

 そうこうしている内に、外部からも美容器具使用法の翻訳、薬の効能書、漫画、果てはポルノ翻訳まで、あらゆる仕事が舞い込んで来て、てんやわんやの忙しさの中、NHKの紅白歌合戦とレコード大賞も私の毎年の行事となり、毎年年末は歌詞44曲を3日で書くと言う殺人的な忙しさに悲鳴を上げる事になる。

 

年末年始はいつも歌詞のテロップを出すためにTV局に徹夜で詰めていなければならず、小学1〜2年生になる娘はやむなく毎年末、知人の家に預けていた。

きっと寂しかったであろう娘は、ママはTV局の仕事してるから我慢しなさいと知人に聞かされていたのか、私を責める風もなく育った。

子供は親の背中を見て育つと言う。

人はきっと言葉や説教などで成長はしないのだ。

その娘も成人し社会に出た時、初めて選んだ職場がニューヨークタイムズの記者だった。

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一休さん-生への充実感

 香港での滞在も中国のそれと同じくちょうど10年だった。

翻訳の忙しさで目も回る毎日に少し飽きて来た頃でもあった。

 

隣の芝生は青く見える。私に少し浮気心が出た時期だった。

小さな商売ぐらいだったら自分にでも出来るだろう。

私は資本金もあまり掛からないブティックを経営しようと画策し、小さな店を借りて、流行の服を仕入れる為、安くて良い服を扱う卸売り業者を町中歩き回り仕入れた。

本業の翻訳は辞める訳には行かないので、二足わらじとなる。

売り子も一人だけ雇った。私が本業で店に出られない時に任せられる正直そうな子にした。

 

内装も終わりいよいよ開業となった。暫くは翻訳は店へ持って行き、客が来ない時を見計らって書いていた。

だが、店の位置が悪かったのか、目ぼしい客があまり来ない。

TV局に行って店に出られない時は女の子に任せていた。

ある日、TV局から直接店へ行くと、その子が店の中であまりの暇さでタバコを吸っていた。タバコ厳禁だと言っていたのにその規則を破ったのだ。煙の匂いが服に付着しては売り物にならないと言うのが私の理由だった。私は即日、その子を解雇した。

その翌日から私は自分で店に出なければならない。

 

常に流行に敏感に反応し、卸屋に買い付けにも行かなくてはいけない。

店に出て、売り子もし、まだ幼い娘の世話や勉強も見なくてはいけない。

自分一手で何でもしなくてはいけない。

たった三か月のいけない尽くしで私は心身共に疲れ切った。

世のいわゆる起業家、社長さんと言う人種達が

如何に血の吐く思いで今を築き上げたのかが初めて痛いほど分かった。

こんな小さな商売でも、それを経営するには、

それなりの才能と体力、忍耐、人脈、家庭の支えなど諸々が必要なのだと知った。

 

その時ほど、自分で事業の心配や仕入れ、

店の収支決算などする必要もない、
上司の言われた仕事をただこなせば良いだけの

翻訳の仕事がどれほど楽で有り難い仕事なのかも

比較してやっと身に染みて分かった。

 

ブティック経営は3か月であっけなく閉店となった。

 

 ある日、日本で大人気の一休さんを香港でも放送したいと上司が言う。

当然仕事は私が受ける事になる。

子供向け番組と私は甘く考え、意に介さず、快諾した。

だが、2〜3作訳した時、これは今までにない手強い作品だとすぐに気付いた。

頓知だらけのアニメにはさすがベテランと称されるようになった私でも訳しようのない作品が多々あった。

今までにない障害が私の前に立ち塞がったのだ。

 

この橋渡るべからず、の立て札を尻目に一休さんが堂々と橋の真ん中を渡って行く。

中国語にも駄洒落は存在するが、塊と快などの同音はあっても、橋と端を掛ける言葉がどうしても見つからない。辞典などもはや何の役にも立たなかった。

アニメ動画がなければどうにか誤魔化しもできようが子供達は主に動画を見て理解する。どうやったら中国の子供達に直感で頓知を分からせる事が出来るか?それだけに腐心した。

 

なぜ、橋渡るなとあるのに一休さんは渡ったのか?と子供達の質問が聞こえてくるようだった。私はそういう訳語が思い付かない時の常で別の家事などをして気を紛らわせ、暫く問題をお預け状態にする。

その時も、掃除や皿洗いなどしたが、この時は頭が空にならなかった。

常に、橋(チャウ)、橋(チャオ)とノイローゼのように文字と音が頭にぐるぐる渦巻く。

ちょうど、皿洗いで箸を洗っていて、この箸では意味にならないなどと思ったら腹が立ち、その箸を勢い良く真っ二つに折った。

 

もうこの仕事はやらない!辞めてやる!筆を折るんだ!と一人でヒステリックに叫んだ。

一休さんのドラマは250集以上もある。

続けたら命が持たないと危機感を覚えた。

本当に限界だったのだ。翻訳業の危機でもあった。

私は翌日、私より年長のベテラン翻訳者の趙さんに会い、一休さんの翻訳を引き継いで欲しいと頼んだ。だが、さすがベテランである。脚本を数行見ただけで、「これは無理、翻訳者の命取りだわ」と言って断られた。

 

快諾した手前、私は締め切りを前に娘を横で遊ばせながら、旧態依然として机に座り、原稿を前に放心状態だった。中国語で橋と巧は同音だ、、。

どうにかならんか、と力なく無心になって考えていた。

そうだ!と突然、天啓が降りた。立て札は日本語だ!画像には見えても中国の子供には分からない。立て札の意味を変えて誤魔化す事はできる。

私はその立て札の意味を中国語に変換しようと思い付いた。

この橋を巧妙に渡れるか?と言う同音の中国語にすれば、頓知の面白さは半減するが一休さんが真ん中を歩いてもおかしくはない。

端をこそこそと渡るのではなく、堂々と真ん中を歩く巧みな一休さんが、苦し紛れの中めでたく出来上がった。

 

これは単に作品の1例でしかない。

毎回の作品には必ず、訳に苦労する頓知が無数に盛り込まれているのだ。

私は一休さんが終わるまで終始この頓知に翻弄され、ノイローゼすら罹った。

 

 その後、おしんと一休さんを中心に私の訳したドラマのほとんどが香港経由で中国大陸へ浸透したと言う。

殆どのこの年代に子供だった人達は一休さんだけは強烈な印象を持ったらしく、今でも、沢山の中年者達から一休さんの話を聞く。

 

 後年、知人を装った人に詐欺をされた時、中国で起訴し、裁判に出席した際、裁判官に「原告は貴重な翻訳で中国教育に貢献した人である」と紹介された時、あ〜思いがけないこう言う形で報われたのか、と感慨深かった事である。

 

善も悪も、すべて必ず報われる、ただし、それには時がある。

思慮浅い人間にはその隠れた時が分からないだけなのだ。

結婚に時があり、病気をするに時があり、子供が産まれるのに時があり、死ぬのに時がある。この世のすべてには神が創造した時があるのだ。

 

こうして、全集250集以上の一休さんを訳し終えた時、私は力尽き、

 一気に5〜6歳は老けたように見えた。まさに、それは命を削った時間だった。

点心

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横断歩道

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夫の暴力と神秘体験

 香港へ移住したての頃、私達夫婦はお登りさんよろしく、香港島一の繁華街と呼ばれるコーズウエイベイと言う街へ行った。

娘はまだ一歳になるかならないかだったので、私がベビーカーを押しながら人のごった返す中を夫を見失わないよう付いて歩いていた。

 

と、日本の松坂屋デパートが見えたので、「あ、松坂屋がここに、、。」私が言い終わらない内にいきなり彼の鉄拳が私の頭上に下りた。

私は呆然と口を開けたまま彼を見た。何なの?なぜ?理不尽な暴力はいつもの事ながら、いくら何でもそれは酷い、と顔に出てたのか、彼は再度怒りに任せて殴り掛かってきた。

突然の事に、沢山の人の目が私達に集まっている。皆は私が何か悪い事をして、主人から懲罰を受けているとでも思っている風だった。

 

私は素早くそこを離れて別方向へ逃げた。ベビーカーを押しながらどこまで歩いたのか、ここは何処なのかももはや分からなかった。

言葉も分からず、バスに乗る小銭すらなく、何処へ行けば家へ帰れるのかも分からない私と娘は路頭に迷った。泣きながらひたすらそこら中を歩き回った。

さっき、何か彼の気に食わない事言っただろうかと思い返し自問しても、いつもその答えはなかった。

 

 思えば、結婚したての頃、彼の3つ上の兄が彼と歩いていた。

私はそのすぐ後ろから付いていた時だ。

「嫁が言う事聞かない時の秘訣は、言う事を聞くまで思いっきり殴るんだ。

そうやって、従順にさせると良い」と言ったのが聞こえて私は少なからず驚いた事を思い出していた。

 

 彼の家は男ばかりの四人兄弟だ。

総じて、温厚で上品、好印象な兄弟ばかりだったので私は兄の言う言葉に耳を疑った。だが、そんな兄でも嫁にはとても良き夫で、暴力を振るう事はなかったと兄嫁は言う。

他の二人の弟も、嫁達に聞くと暴力は言わずもがな声を荒げる事さえあまりないと言う。

なぜ、彼だけがこうも理解しがたい奇怪な性格をしているのか?

 

そんな事を考えながら歩いていたら、急に彼が眼前に現れた。

私達が道に迷って心配して探しに来たのか、疚しく思ったのか、「帰るぞ」と一言言って前を歩き出した。

 

 娘は徐々に成長し、小学校に上がった。香港で日本人居住者は多い。

学校の同級生のママだったり、パイロットの奥さんだったり、色々な日本人と知り合い、その内、不定期に皆で集まってお話し会なる会に時々参加するようになった。

その日も、五人ほど、それぞれ子供達も連れて遊ばせる意味合いから、食品持ち寄りで楽しい時間を過ごした。

話も盛り上がって時間はいつの間にか夜12時を回った。私は慌てて娘とタクシーで帰宅したが、案の定、彼は激怒しながら待っていたらしい。

「お前は不良嫁か!こんな遅くまで子供連れて何処ほっつき歩いてた!このバカが!」罵倒しながら殴る蹴る、挙げ句には倒れた私に馬乗りし、髪を引っ張り床を引きづり回した。

静かな夜とて、私がここで声を上げると近所に聞こえる事を考えると痛みに我慢して声を呑んだ。反抗しなければすぐ収まると思ったのだ。

 

彼の怒りはそれでも収まらず、更に殴打が酷くなったので、私は堪らなくなり家を飛び出し、松ちゃんと言う知人の家へ向かった。松ちゃんは、私のピンポン玉のように青く腫れ上がったまぶたを見てびっくりしたようだ。

慰めてくれ、しばらくここへ泊まるように言ってくれた。

私はまだ小さい娘の事が心配でならなかった。家事など何一つできない彼に子供の世話は絶対できないのだ。どうしたら良いのか、困惑するのみだった。

 

「貴方がここに居ると電話しといたからね。幾らひどい人でも2〜3日したら絶対迎えに来るからそれまで、家で寛いでなさい」松ちゃんはそう言う。

だが、3日経っても電話一つもなかった。向こうも、意地を張ってるのかやっと電話が来たのが1週間後だった。

しかも、ただ一言、「帰って来ないつもりか?」だった。

 

 ある年の秋、彼の日本にいる両親が北京へ遊びに行くと言う。

バカが付くほど親孝行の彼は、では、通訳として我々夫婦が一緒に付いてやると言って、丸2日掛かる北京行きの汽車の切符3人分の手配をした。

それまで、咳込みが止まらなくなって1週間ほどだった私の体調がその直後から、胸痛と呼吸困難も始まり、寝込んでしまった。病院へ行って検査すると、珍しい肺結核が進行中だと診察され、全治3年と宣言された。

 

これでは、もう寒くなり始める北京など行けそうにもなく困惑してしまった。

私がベッドで咳き込んでいる最中、彼は怒りが収まらなかったようで、殴りこそはしなかったが、乱暴な態度で、「まったく!よりによってこんな時に!絶対行かなきゃダメだぞ!」と威嚇した。

 

私もどうにかしたかったが、体調だけはどうにもならない。

「最悪、貴方とランランだけでも行ったらどう?」と言っても、「お前は孝行と言う事を知らないのか?」と言われるのだった。

出発3日前、相変わらず体調の悪い私を見て、「さっき汽車の切符キャンセルして、代わりに飛行機チケットを予約したから、当日飛行機で来い」と言う。

飛行機だと2時間で済むので、それなら良いだろうと思ったようだった。

2日前に彼と小学生になる娘は先に汽車で出発した。

一人になった私の体調はそれでも最悪で寝たきりだった。

行かなければ暴力が待っている、行けば行ったで周りに迷惑かけるし、病気の悪化も考えられる。解決方法は何もなかった。万事休すの私はなるだけ、風邪引かないように暖かい毛皮を知人に借りて出発の用意をするしかなかった。

 

 出発日、私は結核病院で撮ったレントゲン写真や薬、診断書などを持って一人で機上の人となった。北京へ行ったら再度、向こうの病院で診て貰おうと考えていたのだ。離陸して40分ぐらいしたろうか、私は咳き込みながらトイレへ立って席へ戻り座りかけた途端、何かに感電したような感覚になったと思ったら、突然、身体がふわっと軽くなり、それまでの胸の痛みや咳もなくなり、健康体に戻ったと言う感覚を持った。それは本当に一瞬の出来事だった。

それから北京着陸まであらゆる不調は消え去っていて、快適だった。

この神秘的体験は非常に特異で、奇跡とか狐につままれたとしか言いようがない。

 

北京到着は夜8時、外は寒かった。出口で待っていろと言う彼の指示通り、私は待った。気分はもうすっかり良く体調も最高だった。

だが、彼は1時間待っても現れず、やっとタクシーから降りて来たのが2時間後だった。「ごめんごめん、お袋たちと話してたら時間忘れた」と言う。

肺結核で重病の妻を寒い中、長時間立たせてごめん、の意味だったろうが、私は心の中で憮然とした。この人は私を何だと思っているのだろうか?

 

私は不愉快な気持ちのまま両親の住むホテルへ向かった。

ホテルでは豪華な会食の最中で、義母は私に

「その位の病気は何と言う事もない、病は気からと言うでしよ。気にしないで。さ〜食べなさい」と勧めて来る。皆んな人の苦しみも分からずいい気なものだ。

 

 

 翌日、両親が観光に行く前に、私だけ、用意していた諸々の診察書類を持って、先に北京一と評判の協和病院へ診察に行った。体調は変わらず最高に良かった。

そこでも、レントゲンを再度撮られ、色々な検査をされたが、肺はきれいで、咳もなく、肺結核の兆候は何もないと言う。

香港での書類など見せたが、確かにこのレントゲンを見ると重い肺結核だが、今はそれが見られないと言うばかりだ。香港で診断を受けてたかが、1週間しか経っていない。肺炎ですら治るのに1〜2週間は掛かるのに治癒に3年は掛かる私の重い結核はあの飛行機の上で物の数秒できれいに消えた!

あの誰も信じないであろう神秘的な体験は本物だったのだ。

私は確かに空で神に出会ったのだと信じるしかなかった。

 

北京で元気に一週間過ごし、香港へ戻ってから、逆に今度は北京の診断書など持って再度あの病院を尋ねた。「北京の病院は遅れてて、ろくな先進的設備はないからね。」と医師は面倒臭そうに言い、北京の診察を無視して又ここでもう一回レントゲンを撮れと指示した。

結果は北京と同じで結核など微塵もなくきれいな肺に戻っていた。

私は飛行機の中での奇跡を言っても信じてくれないと思い、黙っていた。

「絶対おかしい、診断に間違いはなかった、短期間で治るはずがない」医師は頭を捻るばかりで、念のため、半年一回は定期検診に来なさいと言ったが、それ以来、結核病院との縁は切れた。あれから38年、今もって肺はきれいなままである。

 こう書いていると、彼が如何に虐待魔で酷い人だと思うだろうが、公正を期して書くと普段の彼は温厚で人当たりが良く、嘘を付けない、飲む、打つ、買う、をしない、いわゆる他人から見ると非常に良い人なのだ。

ただ、自分の中で突然沸く激しい怒りを抑える術を知らず、間欠的な暴力に訴えるしかない性格だとこの時は思っていた。

 

 私の実の兄はどうしても表面は温厚な彼の暴力が信じられないらしく、「お前が悪いからだろう」と私が悪者にされるのが常だったので、それ以来、私はあまり彼の暴力を言わなくなった。

結局、それが私の試練だったのか、彼が死ぬまで私は彼の突然の暴力に我慢し続けなければならなかった。

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病と気功

 思い返せば香港での10年も物質的には豊かだったが、身体的な面では持病の心臓も悪化し、精神的には彼の暴力などもあり過酷な日々だった。

 

 ある日、近くの海辺で当時流行していた気功健康教室を覗いた。

少しでも健康になりたい一心で自分でも気功の本を読んでいたので1〜2回参加した。その夜、横になって気が自分の中を巡り、最後に丹田にその気を溜め込む、と言う意念の気功を試しにやって見た。

 

念が強かったのか、始めて5分もしないうちに、突然、気が、と言うより、全身の血液が四方八方から急激にお腹の下へ集中して流れ込む感覚がしたと同時にひどい眩暈と心臓も早鐘の如くドキドキと打ち始めて、私は怖くなり、衝動的にガバッと起き上がって、ベランダへ立った。

 

早すぎる心臓の鼓動で心が落ち着かずじっと立つ事ができない。

気が大量に下腹部に留まっているのが分かった。

目が回りながらも恐怖で部屋中をぐるぐる夜通し歩いた。

夫もびっくりしたらしく、どうした物かと一緒に心配して寝られず、それは朝方まで続いた。夜が明け始めた頃、気功の先生へ電話して来て貰った。

 

先生はすぐ来て症状を聞き、「長らく気功を教えているが、初心者が直ぐに気が巡るのを初めて見た」と驚かれた。先生はまた、この症状は多分魔境に入ったのだろうと言う。気功は奥が深く初心者が誰の指導も受けずにすると魔境に入る危険性があるらしい。

 

とにかく、身体から余計な気を出さなくてはいけない、先生は私を前に立たせて、気を頭から足裏まで流せと言う。

やり方が分からないまま、頭に気がある、その気が足裏から抜け出る、と想像しながら何度も何度も両手を額から足まで下ろす姿勢を繰り返した。

 

夫は小馬鹿にした顔で、「今時、シャーマンか」と薄ら笑いしながら見ていた。

私は真剣だった。と、しばらくしていきなり、一陣の風が全身を吹き抜けた。

確かに足裏から明確に風が吹き抜けた感覚が走った。

気の正体は風だったんだ!と妙に納得した。

まるで、吹き矢から吹かれた一陣の風が足底から抜け出た感じだった。

あ〜抜けた!と叫んだ途端、見ていた夫が「気ってほんとにあるんだ!」と言って驚いたのが忘れられない。

 

 だが、先生はこれ一回だけではまだ邪気は抜け切っていないと断言し何度もやり直しを指示したが、何度やってもそれ以上は抜けなかった。

 

それ以来、私は自律神経失調症と診断されるほど病は酷くなり、食欲は一切なく、たとえ、お腹空いたと思っても少し食べると全部吐いてしまう。

いつも頻脈で、何かに怯え、不眠、便秘、眩暈、冷や汗、のさまざまな症状が日替わりメニューのように出現して衰弱して行った。1ヶ月で10キロ体重が落ち、仰向けに寝ると凹んだお腹には水を入れるとお盆のように溜まる。

鎖骨には石鹸が置けた。特に、一人恐怖症と自分で命名した症状には参った。

 

一人で家にいる時、エレベーターに一人で乗った時など、一人になると、突然恐怖が湧き、又頻脈が起きるのだ。私は自宅で一人で新聞が読めなくなった。

とにかく、人の往来のある戸外のベンチに座って読む。エレベーターには、人が乗るまで待つなどして対応していた。後で聞いたのだが、周りの知人たちは当時私の異常な痩せ方を見て、癌末期で、死期が近いと思っていたらしい。

その激しい症状は2年ほど続き、その後、漢方を服用したりして、激しさは若干緩和したものの、依然として7〜8年は続いた。

 

そんな時、日本の舅たちから日本へ戻って同居しないかと言う打診が入った。

私は娘の学校の事、同居によって発生する矛盾、経済的な事など考えるとなるべく同居はしたくなかったが、親孝行な夫はその気になっていた。

 

私は自分が10年ごとにあちこちを渡り歩くジプシーの気分になっていた。

だが、そのどれもが、自分の選択したものではなかった。

 

 色々な病気と複雑な気持ちなど抱えながら

今度は日本横浜へ舞い戻る事になった。1988年、39歳になっていた。

香港のスカイライン

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山の頂上

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同居と舅の死

 横浜山手での姑達との同居生活が始まったのが39歳だった。

思い返せば、事前にシナリオがあったかのような

約10年と言う区切りで各地を渡り歩き、得がたい困難に遭遇し、奮闘し,泣き、苦しみに足掻いた半生だった。

階段で例えると、今回は一段上がった、更に難しいステージへと登った感覚があった。

 

それは自分で思い悩んで選択した道ではなく、

何かに背中を押されて仕方なく登る、まさに誰かに動かされていると言う感触だった。

 

娘は近くにあるインターナショナルスクールへの

の入学も決まり、新生活がようやく始まった。

 

煩雑な生活に伴う矛盾のほとんどは台所から始まると私は思っていたので移住に際して、私の出した唯一の条件は経済を別にして欲しい事だった。

それは快く受け入れられ、古い二階建ての二階の台所だけは新しく建て増しされ、いわゆる二世帯住宅風にした。

私達の生活空間は一階、姑達の空間は二階と一応区分分けされて新生活は難なくスタートを切った。

 

 舅は10代の頃、中国福建から単身で日本の京都へ渡来し、京都中、反物を売り歩いて生計を立てていた。恐らく京都で姑とお見合いをし、結婚したのだろう、長男と夫の次男をそこで産んでいる。

戦争中だった当時の舅達の苦労は並大抵ではなかっただろう。

学歴なく、お金なく、食うや食わずで反物を売り、子を育てた舅の性格は質実剛健、雷オヤジと呼ばれるほど怒りっぽい頑固な明治男だった。

片や、姑は大正生まれの中国籍だが、日本で生まれ育ったためか、人当たりが良く、嫁いびりもせず優しかった。

 

後で知った事だが、舅の母親は生粋の日本人で長野県の名家の娘で名前を春子と言う。舅は今で言うハーフだったのだ。

この春子さん、なかなか気骨のある人物で、中国人との結婚で親の大反対を押し切り、駆け落ちして夫と一緒に中国福建に渡ったが、頼みの夫はそこで病死した。それからは日本人と言うだけで酷い差別に遭い、石を投げられ、いじめられて、いたたまれず幼い舅を連れて日本へ舞い戻った。だが、自分は中国人と言う誇りがあったのか、銀座へ行く時など、頑としてチャイナ服を身に纏っていたらしい。長野の実家からはすでに勘当されていたので母子二人の生活は苦しかったと言う。

その母、春子さんが亡くなった時、舅は仏壇を買うお金もなく、数日遺体に寄り添い、みかん箱を貰ってそれを仏壇にした。

 

 数年後、舅は家族で京都から東京へと居を移し、浅草でコックとして働いた。ある程度貯金が溜まった舅は、投資として浅草の土地を購入した後、独立してそこで小さな食堂を始めた。

終戦前後は誰も貧しく、砂糖や食糧も統制されていたため、国民はおしなべて、栄養失調気味であった。

 

だが、食堂経営者には国から特別な配給があったので、舅達の食堂は大繁盛だった。どんなものを作っても飛ぶように売り切れ、毎日、現金を数えるのに喜びの悲鳴を上げていたと言う。そうして、舅はまた溜まったお金で今度は東京駅の真ん前八重洲口の土地を購入した。当時、賑やかな浅草に比べて、大空襲に遭い焼け野原と化した東京駅など、バラックばかりで、ぺんぺん草が生え、とても将来性があるとは思えない投資だったらしいが舅には先見の明があったのか、敢然と繁栄した浅草を捨てて、拠点を東京駅と新宿に構えた。続けて横浜、鶴見と投資を広げて行き、同時に麻雀店やパチンコ屋なども手掛け、舅は着実に一代で無から巨万の富を築いたのだった。

 

そんな舅達と同居し、忙しく過ごして一年ほど経ったろうか、その日は、何かの特別な日で、二階で夕飯を一緒に食べた。82歳にもなると言うのに

舅は肉が大好物だったので、献立を牛ステーキにし、楽しく食した直後、舅は膨らんだお腹を摩りながら、「あ〜今日は良い日だ。久しぶりに美味しく食った。満腹だ」と赤らんだ顔で満足気に言って自室で横になった。

 

その夜中、姑が階下の我々の部屋を忙しくノックした。

何だか慌てていて、言葉にならずただ、「おじいちゃんが、、おじいちゃんが」と言うばかりだった。

咄嗟に異変を察知した私は、二階へ駆け上がって舅のベッド脇に座り、心臓に持病のある舅の手首の脈を見たが、不整脈も頻脈もなく正常だった。

続けて、背中をさする。くすぐる。反応はどれも正常だ。

舅にまだ意識はあったようで私の質問に答えようとするが、それより首の辺りが痛いのか、「うーうー」と唸りながらしきりに握りこぶしで首の側面を擦り上げる動作をするばかりだった。

 

私は今度は足裏をくすぐった。何の反応もなかった。そこから恐らく問題は脳にあると判断した私はすぐさま主治医に連絡したが、真夜中とて、「明朝まで待ったらどうですか?」とすげない答えだった。

これは待てる案件ではない。私の動作は早かった。今度はすぐに救急車を呼んだ。

救急隊員が電話越しに症状を聞いた。私が報告すると、あの主治医同様、「そう言う症状だと朝まで持つと思いますがね〜」とまるで来る気がない。

私は粘った。いや、これは緊急事態ですのですぐ来て下さいと必死に頼んだ。

 

舅は15分後病院へ運ばれてすぐに昏睡状態に陥った。脳のレントゲン写真はすでに真っ黒になり、脳死状態で、救いようがなかった。大きな血栓が太い頸動脈に詰まったらしい。

それで、しきりにゲンコツで首をさすり上げていたのだ。

 

それから8日間、舅は一度も目覚めず静かに息を引き取った。

その間、私は一刻も休みなく動いた。舅のパジャマの着替え、汗拭きタオルの交換、死に近づくに連れて冷たくなって行く足先を温めるための湯たんぽの用意。

汚れ物を自宅へ持ち帰り洗濯してまた持って行く。

 

12歳になる娘にもおじいちゃんの側へ座らせ、

硬く冷たくなって行く足のマッサージをさせた。

徐々にこの世界を去り行く命を彼女に見せたかった。

ここではどんな言葉も必要なかった。ただ、ただ感じるだけで良い。

冷たい足がゆっくりと、更に氷のように冷たく変化して行く様を。

皮膚の色が徐々に紫色に移り変わって行く様を。

それを黙って触って感じるだけで良い。

それは滅多にない命の授業なのだから。

82年もの間、舅の中にあった偉大な源泉は片時も休む事なく、その肉体を温め続けて来た。

今、この躯体から離れようとしているそれは何処へ向かうのだろう?

束の間でも良い、そんな事に思いを馳せる事は彼女にとって稀有な体験となり、貴重なこれからの人生の糧となるに違いない。

 

姑と兄弟達皆んながベッドの側に集まった。

話すともなく、話題は葬式の話しになって、姑はどこでどうするかを息子達と話し合う。私は、心の中で、「まずい、こんな話しを舅の前で話すべきではない」と思い、夫を呼んで外で話すようお願いした。

夫は「どうせ、本人は昏睡状態だから分からないよ」と言いながらも、同意して私と娘だけ残して外に出た。

 

その直後だった。無意識のはずの舅の目尻から涙が一筋ツーと流れて首に伝った。一度は拭いたが、また音もなく流れ伝った。

私は舅が皆と最後の別れが出来ないのを悲しんだのか、それとも葬式の話しで自分の死が確実になったと悟って悲しんだのか、その両方かもしれない。肉体は動かず、死んだようになっても意識は

死なない。すべて鮮明に聞こえているのだ。

今は何も言えない舅の心情が途方もなく悲しく哀れだった。

 

死に際しては、誰もが平等に独自で立ち向い、自力で乗り越える術しかなく、張り裂ける痛みで慟哭する家族さえも1ミリもその死を共有できないのだ。

そんな道理は、頭の中では誰もが分かっている。だが、過酷な現実に直面するとそんな理屈はどこかへ吹き飛び、嘆き、怒り、苦しみ、悲しみに、人の心は簡単に押し潰され、呻めき、なぜ助けてくれないのかと神さえも呪ってしまう。

人はこうして初めて自分が決して強くなく、愚かでいかに無力であるかを悟る。

 

その後、夫へ舅の涙の話しをしたら、ただの目から出た汗だろうと一笑に付された。

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実母の死と歪んだ親孝行

 舅の一連の葬式、納骨、墓の手配など気忙しい日々が続いた後、気が付いたらいつの間にか平穏な日常は戻っていた。

 

 私は横浜へ来てから、東京の東北新社と言う映画関係会社と翻訳の契約を結び今度は中国語から日本語への翻訳をするようになった。その内、中国語の映画やドラマなど、台本自体ほとんど英語で書かれるようになったため、仕事は先細りで、数年後には自然と仕事はなくなっていった。

 

 そんなある暑い夏の日、今度は北京に住む私の実母が亡くなったと言う訃報が入った。出来事はいつでも前兆もなく不意にやって来ては人の心を掻き乱す。

39歳の時から脳軟化症で半身不随だった母は、ずっと寝たり起きたりで、その内寝たきりになり、糖尿病になって72歳で突然ポックリ逝ったと言う。

私が結婚するまで介護役は私だったが、結婚してからは、兄が引き継いで見てくれていた。その母が亡くなったのだ。

 

私は心早る思いですぐに飛行機のチケットを手配した。

利己的な夫の思いは大体分かっている。

多分、一緒には行ってくれないと見込んで自分一人だけのチケットを予約しその夜夫へ報告した。その途端、彼の顔色が変わり、むすっと不機嫌になった。

 

え?一緒に行ってくれとは要求してないのだ、もしかして私一人だけでも行かせないつもり?

相も変わらず、不機嫌の原因は分からない。母の死?黙ってチケット予約した事?私一人でも行かせたくない?

その時は、もう慣れっこになっていたので、私はそれ以上詮索せず、続けて家事をこなしていた。

 

私は多分母の葬式で1週間は家を空けるだろうと推測し、1週間分の会社へ着て行く彼のワイシャツにアイロンを当てていた。

私の心の中は、母の死の悲しみ、親孝行が十分できなかった無念さが渦になって湧き上がっていた。

突然、彼はむすっと見ていたテレビを消して、何も言わず物に八つ当たりし出した。リモコンを壁に投げたり、本を力いっぱい足で蹴ったりした。

この人はいつもホントに何なんだ?何が気に食わないんだろう?

聞いても答える訳がない。私はいつものように、消去法で推察するしかなかった。

 

私が彼に何の相談もなくチケットを予約した事、

母の死によって自分の日常が乱されるのが気に食わない。

 

きっとこのどれかに違いないと思った。

その少し前に、2階の姑が訃報を聞いて、香典2万を包んで持って来てくれていた。

私を行かせたくない彼の理不尽さに対する悔しさと母を失った悲しみの思いが重なり、心は千々に乱れた。抑えきれない大粒の涙が、ぼたぼたと熱いアイロンの上に落ちてはジュッと湯気が立ち上り、シャツが霞んで見えなくなった。

ただ、泣けて泣けて仕方がなかった。

それでも涙を拭きながら辛うじてアイロンを掛け続けたが、とうとう途中で堪忍袋が切れた私は

姑から貰った香典袋を彼に向けて思いっきり投げ付けた。

この時初めて私は彼に楯突いた。

 

「人の死を何だと思っているの?私を葬式に行かせたくないのね?今日の事は一生忘れない、貴方にはもう何の未練もない」そう言いながらも、哀しい主婦の性(サガ)でシャツをきっちり畳んで彼が毎日交換できるよう、引き出しへ仕舞い込み、明朝出発のための荷造りを黙って始めた。

 

「いや、行くなとは言ってないよ。勝手に行けば良いさ。ただ、二階のお袋の世話は誰がするんだ?こっちの方が大事だろう?それにランランは誰が見るんだ?俺には見れないよ。一緒に連れて行けよ」

 

怒りながらもぼそっと不機嫌の原因を初めて明確に口にして私を更に驚愕させた。私の推測は完全に間違っていた。

すべてが彼の意に叶う親孝行をしない私が原因だったのだ。

私の母の葬式より、自分の元気な母を大事にする方が先だと彼は明言したのだ。

 

姑はまだ67歳、心臓病の私よりも元気で毎日八重洲まで1時間掛けて遊びに出掛けている。私より早く横断歩道を渡る。

食事は別々で、私達に気兼ねなく自由に食べている。

舅を亡くしてからは前にも増して自由を謳歌している風でもあった。

これ以上どんな世話が必要と言うのか?

彼の親孝行の基準がどれほど非常識で理不尽だったか後から更に嫌と言うほど思い知らされる事となる。

 

先に姑に香典を頂いた時、私は恐縮しながら、私が不在時、水槽に飼っている金魚に2〜3日一回で良いから水槽の横に置いてある餌を与えて欲しいと頼んだ。

パラパラと少し撒くだけなら手間はないだろうと思ったのだ。

姑が答える間もなく、彼がすかさず怒りながら私にこう言い放った。

「何、親不孝な事言ってんだ!馬鹿じゃないかお前。」そう言った後、姑の方へ顔を向けて「お袋、気にする事はない。餌なんか上げる必要ないよ。こんな金魚死んでも構わないから」と。

私は自分の耳を疑った。

この人の奥深くに潜む歪んだ性格を垣間見た思いだった。

 

 翌朝、私は娘を連れて重いスーツケースを片手に家を出た。

家の前は40段ぐらいの急なでこぼこ石段だ。

出る時、まだふて寝してベッドにいる彼に「行って来ます」と挨拶しても、布団を被ったまま彼は返事すらしなかった。

もとより、近くの駅まで送って貰えるとはさらさら期待してはいなかったが、布団の中から「いってらっしゃい」の言葉さえ貰えなかったのは、さすがに怒られるよりショックであった。

この事件のしこりは彼が死ぬまで若干薄れはしたが完全に消えはしなかった。

桜の木

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鳥居
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