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日本と中国の狭間で生きる
​女の実録


​執筆中の内容をリアル掲載
現在ここで加筆推敲等の
執筆工程や更新も全て覗けます

Grow Your Vision

 私は昭和23年熊本に生を受けた76歳の女性である。

祖母は日本人、父母は中国人の華僑2世。6人兄弟の5番目で幼児を長崎で暮らし、12歳の時、父の死をきっかけに埼玉へ移住し、東京の高校を卒業。18歳で私には外国とも言える中国へ家族で渡った。それは丁度、悪名高い文化革命が始まった年、1966年だった。

 

 そこから怒涛の苦しみの連続の10年をそこで過ごす事になる。

言葉、文化、人種が全て分からず、食べる物もなく、革命の真っ最中の事、外では毎日が武闘の繰り返しで銃の撃ち合い、殺し合いなど、さながら戦争のような時世の中、生産も停止し、食糧危機が発生し、日に2食食べれば良い方でそれもご飯に醤油を掛けて食べるだけの貧乏のどん底を味わった10年。

 

 その乱世を尻目に私は、独学で中国語や哲学を必死で勉強し大量の読書が日課となった。

そこで心臓弁膜症となり生涯の持病を抱える事になる。

 

 24歳で結婚、子をもうけ天津社会科学院と言う会社で勤務し、日本の北方領土の研究に携わり、その時日本外交史と言う本を共著で出版した。

文化革命が終わった年の1977年私達親子3人で香港へ移住した。生活のため、香港に2社あるTV局での翻訳業が始まる。香港滞在の丸10年ただただ翻訳のみに携わった。

 

 当時のおしん、一休さん、木枯し紋次郎、ドラえもん、あられちゃん、ジャキーチェンの映画、紅白歌合戦、レコード大賞、日本芸能人、沢田研二、西城秀樹、五輪真弓、アルフィーなどのコンサートとその記者会見などなど、諸々の芸能活動の翻訳通訳を心臓の持病と共存しながらあらゆる翻訳を必死でこなした。

 

 10年後、39歳で再度日本へ舞い戻り横浜で姑達と同居する。そこでも東北新社と言う映画配給会社で映画の翻訳に携わった。一生が翻訳人生だったと言っても良い。

 

 心臓病の悪化に苦しんでいる時、人はどこから来てどこへ行くのか?と言う古来からの哲学の命題を私は追求するようになり、42〜3歳の頃より独自で意識の研究にのめり込み瞑想を始めて30数年、今に至る。

 

 沖縄に”人生を語るには70代はまだ青い”と言う言葉がある。たかだか76歳、確かに人に人生を語る資格はまだ充分ではない。

 

 だが、長年の瞑想経験からこれだけは言える。見える現実と思われている現象は全てが有限脳から生じ、脳から反映された幻想世界だと言う事。脳に自由意志は全くなくそれは単なる宇宙からの受信機にすぎず、人はその脳を介して何者かに動かされ、生かされているだけなのだ。ここは自分が決定し、選択していると思わされているマトリックスの世界なのだ。

 

 この三次元世界では創造、破壊の連続で、万象目に見えている物質は全てが消えてなくなる、従ってその中に本質はない。

本質は深い静寂、沈黙の中に隠されていて、神、意識、魂、なんと呼んでも良いが、それらは中国では気と呼ばれ、インドではプラーナと呼ばれる無の中に確実に存在している。人は呼吸からその気を取り入れて生かされている。

 

 それは生まれず、死せず、汚れず、比較せず、判断せず、ただただ沈黙の中に永遠に存在する。それが本当の自分なのだ。

あなたは沈黙の中にいる時、その存在を五感で感じる事ができる。

私は毎日、その静寂の中の自分を求めてただ脳内の観念を捨て去り無になって座る。

 

 これからのドラマはその幻想世界を本物の如く思わせる過去の影の人生模様を描く事になる。主要テーマ記事は私が遭遇した中国人女性による詐欺事件でこの横浜時代に発生した。叙述の全てが三次元での真実、実録であり、登場人物の名前も敢えて全て実名にした。

 

 普通の人には本物と認識されるこの幻想世界のさまざまな人生模様を存分に味わい、楽しんで頂ければ幸甚である。

Lin Aikiku   

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ドラゴンランタン

01

1966年文化大革命の始まり

♫Yesterday all my troubles seemed so far away.
Now it looks as though they're here to stay.
Oh, I believe in yesterday.

 

 18歳の私は船酔いしながらも大海原を航行する大きい船の甲板に1人で座り込んで、大ファンだったビートルズの歌詞を練習し歌っていた。

1966年、6月。ビートルズが来日し、私は他の若者同様、熱狂し、彼らの宿泊先であるヒルトンホテルまで行き、ホテルを見上げながら感激して泣いた日からまだ1ヶ月も経っていない。だが、今は一転して家族と一緒に中国へ向かう船上の人となっていた。

 

日本の小さな世界しか知らない自分のこの先に何があるのか、自分の運命はどこへ向かうのか、何もかもが未知数の世界へ今、飛び込んで行こうとしていた。

英語の歌詞を覚えるだけで良いさ、時折り、船酔いで吐き気を感じながら今はそれだけしか考えられなかった。

 

辛い3日の航行で船は上海へ着いた。遠くから緑地の少ない、海からほんの1メートルぐらいしかない殺伐とした土気色の上海の陸地が見えた時、生物はこんな薄い陸地の上で生きているんだと言う感想だけが脳裡に浮かんだ。

 

ホテルが手配した送迎車が桟橋に横付けになり、乗り込んだら、ワラワラとホームレスかと見まごう沢山の人が物珍しげに寄って来て、我先にと車の至る所をベタベタと触り、私のスカートの中にまで手を入れて来て驚いた。

 

ホテルの所在地に近い上海の目抜通りの和平路を私と姉の2人が歩いていた時、突然、紅衛兵と呼ばれる腕に赤い腕章を付け、星の付いた布の帽子を被り、異様な血走った眼つきをした一群の若者達に囲まれた。一斉に腕を天高く突き上げ、大声で何やら我々を攻撃しようとしている。中国語が全く理解出来ないので、意味は分からずとも、自分達の身に危険が迫っている事は分かった。

 

と、また突然、靴を脱げ!と言う仕草をしたのでそれに従うと、皮鞋に穴を開けそれに紐を通して繋げ、その紐を私達それぞれの首に掛けられた。そのまま裸足で歩いてホテルへ帰れ、と言う。向こうは集団なのでこれも従うしかなかった。痛いのを我慢して歩いていると、両脇の道路の至る所で革命の歌を鼓膜が破れそうな大音量で流しながらトラックや車が駆け抜ける。ある集団は巨大なドラをガンガンと打ち鳴らしながら練り歩く。街中喧騒だけしかなかった。

 

ほうほうの体でホテルへ到着するともう二度とホテルから出ないと心に決めた。ここでは一体何が起こっているのか?なぜ、公共のバスも走らず、大勢の紅衛兵とやらだけが街を跋扈しているのか、何も理解できない。後で、通訳の人から文化革命とやらが始まり、皆んなが殺気立ってるので、外出するなとの勧告を受けてやっと少し事情が分かった。とんでもない所に来てしまったのだ。

 

 それから2週間ほどして、政府筋から自分達の親の故郷である福建へ行けとの通達で、今度は汽車で一路福建へ向かう事になった。中国の大地は流石に広大で、汽車で行けども行けども、人家は見えず、赤土の荒涼とした景色が延々と続く。

 

丸1日半走ってやっと福建の省都福州へ着いたと思ったら、ここでも紅衛兵達が我々の下車を阻んだ。通訳によると我々は邪悪な資本主義社会から来た人間だから収容所に入って教育を受けなければいけないと言う。何と理不尽な!

私の兄は日本で空手を習っていたので、家族を守ろうとしたのか、彼らに徒手空拳で立ち向かった。一触即発の雰囲気の中、通訳が中に入り、すったもんだの末、何やら話し合ってやっとの事、下車を許されたが、厳しい条件付きだった。ホテルへ着いたら即、そのスカートを太いズボンへ着替えろ、とか、姉の髪が長かったのでそれも即短髪に切れ、24時間猶予を与えるが我々は24時間後にホテルまで確認に行くので、着替えなかったらすぐに逮捕だとか言い渡されてやっと解放されたのだった。私はビートルズカットと言って超短くしていたが、それにもいちゃもんが付けられた。短いのは良いが、もっとギザギザにしろと注文が付いた。そう言えば、上海の税関でビートルズの切り抜きを貼ったアルバムも、これは黄色だからと没収された。黄色って何だ?

 

やっとホテルへ着いたが外出も出来ず服を着替えるにも太いズボンなど持っていずあったとしても細いジーンズしかない。姉はすぐに髪を切ったが、やはり、彼らの要求する服はない。じっと24時間怖い思いをしながら待った。

2日目、紅衛兵が来ると緊張していたが誰も現れなかった。後でわかったが、その日突然、中央から全国への通達が降りたのだと言う。曰く、紅衛兵は行き過ぎた事をしてはいけない。瞬時に我々は解放されたのだった。

 

 ホテル滞在中、近くに住む日本華僑の男の人が臨時通訳となって我々をサポートしてくれていた。後に、姉の旦那さんとなる人だ。

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02

華僑ゴム工場で働く

 親戚やら周りの人達のアドバイスを受けて近くにある華僑ゴム工場で働く事になった。

文化革命の最中、労働者こそが社会を率いる階級だと大々的に宣伝されていた時期だったので、私としては不服だったが、このご時世、それが一番身を守れる仕事だったには違いない。

 

 工場の規模はかなり大きく、工員は数千人はいたかと思う。

華僑と言う名前の通り、行員の殆どがインドネシア華僑で、日本華僑は2家庭しかなかった。

暫時、我々は宿舎の一部屋を与えられて新生活が始まった。

我々は半身不随の母親を連れていたので、そこで母の介護もしていた。

姉は私の兄を責め立てていた。こんな原始的な国に連れて来て責任を取れ、私は日本へ帰る、と毎日泣きながら訴えていたが、公安ですら機能していないはちゃめちゃな政情の中、ビザを取る術もなかったので姉は結局泣き寝入りしかなかった。

私と姉はビーチサンダルを生産する部門へ配置され、工員生活が開始した。

 

 文革は日ごとに激しさを増し、工場の外では政治的に毛沢東擁護派と反対派に分裂し、お互いに毎日銃の撃ち合いや殺し合いが激化して行った。

近くにある広場には毎日殺された人達の死体を見せしめのため吊るされていたので私と兄はよくその状況を見に行って、ついでに、道に転がっている大量の薬莢拾いをし家に持ち帰ったりした。

 

だが、それも外の事、工場内は暫時平和を維持していたが、その内、工場の壁という壁に大字報がベタベタと貼られるようになった。

主に、資本家打倒、党内の資本主義打倒のそれだったが、個人的な批判も徐々に貼られるようになった。

 

私はまだ中国語もよく理解出来ていなかったため、あまり見なかったが、友人が、貴方の名前が貼られていると言うので見に行ったら、確かに自分を批判されているような文章だった。

なになに的、資産階級、ブルジョワ思想、ぐらいしか分からない。

なぜ私が批判される?と合点が行かず、言語が分からない悔しさを身に沁みて感じた瞬間だった。友人の通訳によると、我々は憎き日本から来た鬼だ、ブルジョワ思想丸出しで、常に良い服を着ていて革命的ではないとか、夜ふかしして遊びまくっているとか、どーでも良い批判のための批判だった。

 

この野郎!よし!中国語を勉強してやる、

そして、反論をここに書いてやると心に誓った。

まず、第一にした事はボロボロの服に変える事だった。

自分にはボロ服がなかったため、貧乏な工員と服を交換して着替えた。

ここではまだ外国で流行しているジーンズの事を知らなかったのかジーンズだけを穿くと革命的で良いと太鼓判が押されたのでズボンはジーンズで済んだ。単純な物で、ボロボロに着替えた途端、革命的と称賛され始め、大字報には書かれなくなった。

 

それでも、文革によって生産まで停止したのを良い事に、毎日、近くの図書館へ通い、マレーシアから来た元新聞記者の家に行き、漢詩や文語、簡体字の教えを乞い、猛勉強を始めた。

常に紙と鉛筆を手に、行く人ごとに発音の仕方や読みを尋ねて覚えて行き、半年も経つと殆どの会話は成立するようになった。

 

 外での武闘は相変わらずで、銃声も聞こえる。

ある日、外の武闘の連中が大挙してこの工場に強奪に来ると言う噂が流れた。

我々は皆んなで力を合わせて自分を守ろうと集会が開かれ、具体的には、敵が来た時琺瑯の洗面器をガンガン鳴らして皆に知らせ、各家庭では、角棒に釘を沢山打ち込み、それを武器にして戦おうと言う原始的な自己防衛法だった。

 

 ある夜、誰かが洗面器を叩き鳴らしたのをきっかけに皆が皆、緊張し、戦いの準備をした。私も角棒を手に、来たらこれで殴り倒すと身構えていたが、結果何も起こらず、あれは叩き間違いだったと判明した。だが、ここで異様な事が発覚した。半身不随で寝ていた母がいない!どこだ?なぜいない?探し回ったが家にはいなかった。外に行くと母が家から離れた場所に皆と話しながら自力で立っているではないか?しかも、家は2階にる。階段をどうやって降りたのか?後で分かったのだが、洗面器が鳴らされた途端、母は怖さの余り脱兎の如く走り、階段をダダダと降りて、安全地帯まで歩いたのだ。しかも、普段立てないはずが、今は立って皆と談笑している。母は私を見た途端、前のフニャフニャ母に戻り、自力で立てなくなり、階段も支えてようやく上がった。

 

 世間ではこれを火事場の馬鹿力、或いは奇跡だと言うが、人間の能力は無限と言う事が実際に体験できた事件だった。

平和な時、有限と言う枷を人間自ら自分に課しているのだ。

オリンピックで12秒百メートルが標準だった時、9秒で走る選手が現れたらその年以降、急に9秒台が続出する現象を見ても分かる。

自分にも出来ると思考するとそれは現実となる。

 

 仕事をしていたある日、工場の党書記が来て、午後から日本の視察団が工場に来るので、皆んなに、こざっぱりした良い服に着替えるようにとの

通達があった。姉はいそいそと私に一緒に帰ろうと促したが、へそ曲がりな私は納得行かなかった。なぜ、今まで通り、素のままの自分をを見せないのか、なぜ、服を交換して、見栄を張るのか?しかも、日本は鬼で敵だったのではないのか?

私は頑として帰らなかった。

書記は残った私になぜ交換しないのかを聞いた。

私はそのままの考えを答えた。

書記は憮然とした表情でくるぶしを返して去った。

 

 その後、書記の呼び出しを受けた。明晩、書記の部屋へ来いと言う。

彼は恐らく、私を思想が悪い反革命と言う烙印を押すつもりだと踏んだ。

自分に反対する者はことごとく追い落としを掛ける男なのだ。

 私はその夜、ある戦術を考えた。

彼の性格や文化レベルから推測し、壮大な反論を用意すれば勝てる自信はあった。

それには正確な中国語とロジックが必要だ。

夜を徹して、何度も読んだ毛沢東選集を再度読み込み、赤いポケットサイズの語録の内容も

細かくチェックして、満を持して書記の部屋である小さな小屋へ向かった。

 

案の定、彼は毛沢東選集の話から始まった。彼が読んだ内容などほんの触りしか見ていないに決まっている。

私はその内容は選集の何ページに書かれてるかを尋ねた。果然、彼は答えに窮して、今度は毛語録に話題を変えた。

よし、予想通りだ。

彼は朗々と語録をそらんじ始めた。ポケットサイズだ、内容は多くて30字もない。子供でも誦じられる。しかも、冒頭の語録。

 

私はそんなに誦じられるのだったら、何ページ何段に書かれている内容を誦じてくれと迫った。彼は窮した。何ページと言われてもその段に何が書かれているかほとんどの人は覚えていないはずだ。

私は代わりにその段を誦じた。彼に反革命の烙印を押されない為に。

私はさらに迫り、語録を覚えて言えるのは誰でも出来る、その内容を実践する事こそが書記の本来の仕事ではないのか?

時に、矛盾論や実践論はご存知か?と痛い所を突いた。

 

お互い大声で喧嘩のようだったので、夜というのに周りには続々と人が集まり始め、沢山の人が窓から覗き見していた。

これで良し!沢山の証人が集まれば書記も不当な報復を私には出来ないだろうと私はほくそ笑んだ。

 

 その夜の出来事は翌日すでに全工場の人の知るところとなった。書記はそれ以来、私を煙たがり、相手にしなくなったが、報復は見えない所で行われた。

兄や姉の賃金は上がるのに、私だけが終始上がらず、ずーと最低賃金のままだった。

 

 また、ある日、私の一番毛嫌いする毛沢東の妻である江青が作成したと言う忠誠舞(毛沢東に忠誠を誓う踊り)を工員達が仕事開始の前、朝一で強制的に踊らせると言う事をこのごますり書記が提案し、実行された。

私はそれが本当に嫌で、毎日どうやったら逃げられるかを考えた。

わざと遅刻したり、具合が悪いと言って座っていたり、踊っているふりをし、適当に誤魔化したりしていた。

踊りのフリ自体が非常に低脳で、踊りとも呼べない代物だった。

 ある日、私は普通のラジオ体操に変更した方が工員の健康に役立つと提案したが、政治第一で、ましてや上層部のご機嫌取り人間には通じなかった。

 その後、毛沢東が死去し、すぐにその妻の江青も逮捕された時には全民がドラや太鼓を叩いて大いに祝った物だった。

赤いドア

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病院ベッド

03

​入院と逃亡

 そうして、経済的、精神的、身体的の三重の苦しみの中、やっと1年が過ぎた時、私の体調に異変が生じた。

心臓音が大きく、心臓で身体が動いているのが分かる。

息が切れる。歩くのも辛かった。

 

病院で診察を受けた結果、風湿性心臓病と診断され、即入院となった。

恐らく、気が付かない内に風邪を引き、その風邪の菌が心臓の弁へ付着して弁の動きが鈍くなったと言う説明だった。

その病院の裏側に建つ、高級幹部のための病室への入院となった。

病室は3階で、食堂が1階にあるのだが、私の重症度から階下へ降りる事を禁止され、食事は毎回看護婦が運んでくれていた。

 

その病室は2人部屋で同室の患者さんは老年(多分60代)の高級幹部の女性だった。

表情が厳しく、怖い感じで最初は彼女との距離を取っていた。

いつも沢山の見舞い客が来る人だったし、お手伝いさんが常に彼女の世話をしていた。客が来ると必ず見た事もない美味しそうなケーキやお茶や菓子を持って来る。

 

親しくなってから彼女はいつも私にそれらをお裾分けしてくれた。

ベッドに横たわるだけなので暇を持て余し、2人で将棋などをして遊んだが、私は彼女の将棋の指し方に戦略があるのを見逃さなかった。彼女は、

「そう、将棋指しは戦争のやり方と同じで、高い所にまず陣取って先の展開を推測し、勝つと思ったら進み、負けると思ったら退避するのが基本だよ」これを孫子の兵法と言う。と教えてくれた。

多分、彼女は戦争に参加したに違いない。

 

私の見舞客は兄だけだったし、安月給の貧乏だったので菓子や果物など勿論ない。心臓には蜂蜜が良いと老女は教えてくれたが、そんな高級食品はとても買えない。飲むのは白湯だけだった。

それを知って、ある日、蜂蜜をプレゼントしてくれて私を感動させた。

 

徐々にこの老女の正体も分かり、非常に深謀遠慮のある人だと言う事も分かった。地頭が良いのだ。

徐々に、私に人生について、これからの生き方と言う事も教えてくれる老師のような人に変わって行った。

 数ヶ月が過ぎ、とうとう彼女の退院の日が来た。

お別れの言葉が “人生諦めてはいけない、

身内に火がある限り燃え続けなさい!”だった。

私はきっとこの言葉を忘れまい、と強く心に刻んだ。


 

後で知った事だが、彼女に病気はなかった。

文化革命で殆どの幹部たちはありもしない罪を被せられ紅衛兵に批判会に連れ出され、街を引きづり回され、拷問に掛けられる。

その屈辱に耐え切れず自殺した幹部は無数にあった。

彼女はそれらの紅衛兵から逃れるために入院したのだった。

 

私はそれから1ヶ月ほどしてから退院したが、入院費用も出せない兄が一計を案じて、夜中に壁を越えて逃げろ、俺が下で待ってると言う。

要するに費用払えないから夜逃げしろと言うのだ。

その前に身の回りの魔法瓶とか食器とかは兄が昼間に事前に持ち帰り、逃げる時、身軽に逃げられると考えたらしい。

 

住所も分かっているのに逃げられる訳はないとは思い至らず、単純に逃げられると思い込み、その通りに逃げ帰った。

その後、案の定、病院は工場まで追っかけて工場の責任者と話し合いをしたらしく、工場の社長が我々の窮乏が分かるからと毎月、少ない給料から生活に影響を来さない程度に月賦として差し引かれていたが、その内、面倒なのか、哀れに思ったのか、いつの間にか差し引かなくなり、病院側の催促もなくなった。

 

 古き良き時代だったと兄は後年感想を述べたが、確かにそういう時代だった。

警察に通報するでもなく、罪に問うでもなく、裁判に掛けるでもない。

今のように金だけが唯一と思う風潮ではなく、人こそが主体だった。人こそが大事だったのだ。

なきゃないでどうにかなるさ、と言う貧乏人には

生きやすい時代だったように思う。

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04

犬殺しジジイ

 工場で働き出して1年ほどして、工場内で少し大きめの部屋をあてがわれた私たち一家は、若干こざっぱりした公団のような煉瓦立ての2階に引っ越した。

日本の6畳2間と言う感じだろうか。床はコンクリだ。部屋のみで台所もトイレも皆んな共同である。4家族で一つの台所と2つのトイレを使う。

 

この台所が厄介で、薪で煮炊きする。日本では当時すでに家庭に炊飯器はあったし、ガスもあったから薪の火の起こし方など分からず、最初は手を焼いた。

工場では、優遇してくれて薪の前に使う油木と言う細い木を我々だけに手配してくれた。

 

これも使い方が分からず、最初に新聞紙を燃やし、そこに少量の油木を上に置くとすぐに燃えて、その上から薪を置くと言う順序なのだが、私は1ヶ月は持つと言われた油木を2日で燃やし尽くし後が続かず困った。

そうこうする内に、前に炒め物した家族の後から使わせてもらう事を思い付いた。

まだ火が残った状態だから、起こす必要がない。我ながら良いアイデアだった。

 

 外はまだ武闘が続いている。生産は停止して、食糧危機が迫っていた。

国は次々と経済縮小を発表し段々食べ物がなくなって来た。

その頃から、油は一人月100ml,米は月5キロ、肉月500g、布3メートルと言う具合に、配給切符が配られた。米はそう食べないので不満はないが、油が少なすぎて揚げ物はおろか、野菜炒めすら出来なくなり、お湯で湯がいた野菜しかできなくなった。

もう太った人は見かけなくなり、皆ガリガリに痩せ細って皮膚は見事にシワシワになって行った。

その時、餓死と言うのは突然に来るものではなく、徐々に緩慢に迫るものだと身体で知った。

母は40歳で脳梗塞から半身不随になったので

段々病状も悪化して、食事は私が食べさせなくてはならなかった。

 

前は普通に食べていたのだが、配給制になってから肉もあまり食べさせられない。

母は結構わがままで、少しでも良いから肉がないと食べられないのだ。

一口入れて肉がないと突然口が止まり、うんともすんとも動かない。

スプーンを入れて刺激しても時間は止まったままである。

 

私はイラつく。そうだ!食堂に行けばまだ肉片の炒め物があるかもとひらめき、食券を片手にダダダと階下へ降り食堂へ走った。

一皿残った肉を買い、再度母に食べさせる。

さっきの時間停止は何だったのかと思うほど、母は美味しそうに早口で食べ始め、その速さに私は忌々しくチェッと舌打ちした。この時、母、御年、59歳だった。

 

階下には犬おじさんとあだ名を付けた5〜60歳ぐらいのおじさんがいつ見てもキセルを咥えて、細く長い椅子の上に器用に体育座りして座っていた。

その家は一匹の犬を飼っていて、まだ成犬になりきれていない可愛い顔の犬だった。

私はそこを通るといつもいっときその犬と遊んでいた。

 

 ある日、おじさんが、嫌がるその犬の首に太い紐を無理矢理付けていたので、犬はキャンキャンと鳴き叫んでいた。

何事かと下に行くと、おじさんはまるで普通に家事でもしているような無表情さでその犬に付けた紐を太い木に括り付け始めた。

 

犬の声はギャンギャンと断末魔の叫び声に変わって行く。

おじさんは横井戸から水を汲み上げる仕草で、片足を木に踏ん張り、片方の紐をギューと思い切り引き始めた、片方の紐の先は吊るされ鳴き叫ぶ仔犬の首だ。

私は凍りついた。止めないと、と思いながらも声が出ない。

おじさんの力が強いのか、仔犬はすぐに鳴き止み、ぐったりした。

 

凍りついた私は突然、弾かれたようにおじさんの前に走り、紐を緩めようとしたが遅かった。仔犬はすでに死んでいた。

 

おじさんは、何もなかったかのように、私にこう言った。

「犬肉は美味いぞ、仔犬だから肉が柔らかい、これから毛を毟って今夜煮込むから食べに来ないか?」

 

私は初めてここでは犬はペットなどではない、鶏や豚肉同様、食う物だと知った。

その日以来、そのおじさんのあだ名を犬殺しジジイに変えた。

煙草爺

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爆竹

05

​パートナーとの出会い

 相も変わらず、食うや食わずの苦しい生活は続いた。苦しさの連続に時折り心は打ちひしがれ、荒んだ。

それでも夏、冬と季節は慌ただしく移ろいで行く。

 

そんな時、ハモニカ片手に兄弟で近くにある川の土手へ行き、春の〜うららの〜隅田川〜と日本の童謡を大声で歌うのだがこの厳しい現実と日本懐かしさのあまり、不覚にも涙が溢れて声にならず泣き崩れた事もあった。

 

それでも、私は私達をここまで連れて来た兄を責められなかった。

兄も心では後悔しているはずだ、その証拠にまだ若い兄はストレスで胃病になり、常に痛い痛いと背中を曲げて歩いていた。胃に良いと言う治療法は何でも試した。弟妹を思いやる優しい兄でもあった。

私が土手で泣いた時、彼は「苦労は買ってでもしろ、と言うじゃないか。

人生、どん底にあってこそ、精神は鍛えられるんだ。夜明けの前が一番暗い、前方には光あるのみだからもう少し耐えよう。」自分に言い聞かせるようにそう言って私を励ました。

 福州は海に近いが盆地のため暑くて寒い省都だった。

日本、台湾、東南アジアには船で行けたせいか金持ちの華僑が多い。

言葉は福州方言で、標準語を喋らせたら、笑ってしまうほど訛りがきつい。

 

 ある寒い冬、兄の友人である日本華僑の客が来た。

厦門(アモイ)にある華僑大学の学生だった彼の名字も我々と同じく林だった。よく聞いてみると同郷だと言う。

その人は後に私のパートナーとなる人だった。

 

兄が母の病気を治したい一心で、ある人からアモイにある特別な蛇が半身不随に効くと聞き、中国語が得意でない兄は、人を伝って、この日本華僑の林さんに会いに行ったのがきっかけで仲良くなった蛇友達らしい。

 

 それから、ちょくちょく来るようになるのだが、いつも何の連絡もなくふらっと突然来訪し、ふらっといつの間に帰る風来坊だった。思えば、電話もなく、手紙は届くかどうか分からず、連絡のしようがなかった時代なので突然来るのが当たり前だった。

 

兄達二人は時折り酒を交わし、談笑していた。

その夜、3人でトランプ遊びをした。兄がルールを設け、負けた奴は手を思いっきり叩かれると決めた。

私は負けて叩かれたくなかった。相手達にどんなカードがあるかを予測しながらカードを出して行く。隣は兄で、前に林さんが位置する。

兄のカードをちらちら盗み見しながら、素早く次の一手を考えていた。

と、また次に首を兄の方へ向けた瞬間、私と兄の間にある空間に紛いもない、私自身が、もう一人の自分が無表情で無言、ただ静かにそこに座っているではないか!え?何だ何だ!?もう一度、目をやった時、その姿はもう消えていた。

ほんの数秒の出来事だったが、あれは決して見間違いでも、目がおかしくなったのでもない。

確かに自分の姿だった。質感もあったし、立体的で透明でもなかった。私だけが見えた光景だったのだ。

 

 誰にも言わなかったが、あれは何だったのか?とのちのち心で反芻しては不思議な感覚になった。一回目の神秘体験だった。

それ以来、時々、神秘体験をするようになった。

 

 工場では文革の最中とて、仕事が終わると週三回学習会を開催していた。

ただ、新聞記事を読み合い、内容を話し合うだけで、誰も本気で学習しようとは思っていないのでダラダラと読んで終わり!となるのが常だった。姉と一緒に先に家へ帰り、お茶を用意してさ〜行こう、とドアを開けた。

 

2階の窓から見えるのは、遠くの山々と広い空と眼前に広がる青々とした広い田んぼのみだ。

その時、何の予兆もなく突然私の口から「ここで義兄が死んだと言ったらどうする?」と姉に向かって口を突いて出た。

「何バカな事言ってるの!縁起でもない!」姉は怒った。

姉はここへ来てから1年後に工場の外に住む日本華僑である干協と言う青年と結婚していて、1歳になる男の子も設けていた。外から毎日工場へ通っていたのだ。

旦那である干協はまだ27歳で船員をしていた。

 

姉が怒った数秒後、階下に自転車のブレーキの音が聞こえて、すぐに「愛珠〜愛珠〜」(姉の名前)と呼ぶ声が聞こえた。

窓から覗くと2人の中年男が自転車にまたがって家を見上げている。知らない人だ。

 

「自分は干協の同僚で、ちょっと用事があるから一緒に舅の家に来てくれ」とだけいった。姉は怖がった。なぜ、旦那の同僚が来るのか?しかも二人で。

何があったのか?頭にはその質問だけががぐるぐる回っていたらしい。

「菊ちゃん、一緒に行って」そう言うと私達はそのおじさん二人の自転車の後ろに乗り、舅の家に急いだ。

何があったのかと聞いてもおじさんは何も答えない。

姉は不安になり、私に「菊ちゃんさっきなんて言った?まさかそんな事ないよね?」

と言うばかりだった。

私自身も混乱していた。さっき何であんな事口走ったのか?

誰に言わされたのか?答えは何も出ない。

 

舅の家に着いた途端、姑の泣き叫ぶ声が玄関まで聞こえて来た。やはりただならぬ事が起きたのだ。義兄は元々が酒飲みで、船出をする度に皆で酒を煽っていたと言う。秋とはいえ、まだ暑い中、酒を飲んですぐに冷たいシャワーを浴びた途端、船上で倒れて即死だったと言う。

27歳の若さでいわゆる脳卒中だった。姑と姉は半狂乱になった。

 

 数日後、義兄の葬儀が行われ、荼毘にふしたその夜、姑の家で皆が集まって食事会をした。

姉は茫然自失状態だったため、1歳の甥っ子は私が世話をしてご飯を食べさせていた。部屋の玄関に通じる大きいドアは開かれたままである。

 

突然、甥っ子がおぼつかない足ですっくと立ち上がり、ドアに向かって

「パパ、パパ」とまるで見えるかのように指差しながら叫んだ。

あ〜義兄が帰って来たのだ、きれいな魂には霊が見えるのだ、と私は固く信じた。

 

06

​結婚

 時々、ふらっと来ていた林さんはその内、来訪が頻繁になって来た。

明らかに今はすでに兄目的ではなく、その目的は私に変わって来たのは誰の目にも分かるようになり、兄はそれを喜んだ。

心臓病を持つ妹を良い人に嫁がせ、少しでも長生きさせて幸せになって欲しいと願っていたのだ。

 

私達は自然とお互いに下の名前で、斯英(シエイ)愛菊(アイキク)と呼び合うようになり、特にどこへデートに行くでもなく、映画館へ行くでもなく、束の間の時間を近くを散歩したり、読書の感想を言い合ったり、トランプ遊びしたりして過ごした。

 

 話の端々で徐々に彼の親が日本では金持ちで坊ちゃん育ちだと言う事が分かってきた。

ある日、彼が持っていた中国では見た事もないデュポンと言うブランドの重い金属ライターを兄が誤ってコンクリの床へ落とした。

すると兄が謝る前に彼は、「あ〜平気平気、旧い物が行かないと新しい物は入って来ないから」と言う意味を中国語ですかさず言って私を感心させた。

心の広い、男らしい人だとの印象を強く私に与えた。

普段は口数も多くなく、穏やかで優しい感じの人だったからその印象は余計に心に刻み込まれた。

 

さすがに二人でどこにも行かないのを見て、兄は二人でアモイに遊びに行けと汽車の切符を買ってくれた。

アモイには彼の同級生がいるのでその人を頼って行った。

当時は珍しい乗用車で私達を乗せて観光地巡りなどさせて貰ったが、その時、彼の大事な例のデュポンのライターを紛失してしまう。このライター

は結局彼とは縁がなかったのだ、とうとう旧い物は彼の元を去って行った、次の新しい物はいつ何が現れるのだろうか。

 

 アモイには鼓浪島(コロンス島)と言う小さくて美しい島がある。

そこへ船で渡り、島内を巡るのだ。昔、富裕層が建てた別荘や建築物が外国の景色に似て異国情緒の雰囲気のある村になっている。

途中、アイスを食べながらそぞろ歩くと、そこかしこに写真屋さんが商売していた。

アモイの街を背後に記念撮影しようと数人が並んでいたので我々も並んだ。しばらくすると写真屋が次の人!と呼ぶので我々かと思ったら別のカップルだった。そのカップルは確か、我々より後に来たはずだが…、と訝しんだが、まっいいか、と私は残りのアイスを食べて待とうとした。

だが、彼は突然気色ばんで、顔を真っ赤にして写真屋に食ってかかった。

順番待ちだろう、何でコイツらを先に写すんだ!と激怒した。

私はなぜこれほど怒るのか理解出来なかった。頭から湯気が出るほど、カッカした彼を見て少しがっかりしたし、ほんの少し彼の心の内を垣間見た気がした。

 

 彼が大学を卒業する頃、文革はまだ終わらず、知識分子は共産党体制から排斥され、殆どの卒業生は農民の再教育を受けるためと言う美名の下、田舎や過疎の山へと追いやられ、仕事はなく、農民になるしかない状況だった。

 

彼も同様、福建の武夷山と言う、今でこそお茶と美しい観光の名所として知られるが、当時は世から隔絶された、本当の深山幽谷の中へ強引に配置された。

 

虎、猿、蛇、イノシシは当然のように生息し、その中に申し訳程度に人間が混じると言う具合だった。山を降りられる車や道路などある訳もなく、険しい道なき山を徒歩で降りるなど年に一回あるかどうかと言う仙人のような生活を強いられた。

 

さすがに飄々とした風来坊の彼でも、これには参ったらしく、徐々に精神が病んで来た。私の家に来るのも遠のいて、しばらく会えなくなった。

 

所が、半年ほど経ったある日、彼がまたひょいと現れて、福州の街へ降り立った。武夷山から下山して汽車で来たのだろう、全身埃だらけで汚い格好で来た。これから直ぐに天津へ向かうと言う。

汽車で天津までまた丸1日半は掛かる。どこへどう口聞きをしたのか仕事の配置が天津に決まったと言う。山から出られる事自体、奇跡なのになぜ、都会へ行けて仕事があるのかは謎のままだった。

座席が暖まる間もなく、彼はすぐに又旅立って行った。

 

 2〜3週間して、彼が今度はこざっぱりした格好で家へ来て、正式に私に結婚を申し込んだ。

仕事先が都会へ決まり、これで嫁を娶れると考えたのかも知れない。

彼が29歳、私が24歳の秋だった。

レッドランタン

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中国のお茶

07

貧窮からのプレゼント

時は容赦なく過ぎ行くのに貧窮は改善される兆しもなく続く。

日本から家族で福州へ移り住んで、いく年過ぎたろうか。

環境は人の面貌を変えると言うが、24歳になっても奥手で、鏡を見る事が一番嫌いな自分の面貌は他人から見て大きく変わったろうか?

 

世間では貧乏をほとんどの人が忌み嫌い、不幸と同義語と考えているような節がある。貧乏から這い上がる、抜け出る、克服する。まるで、悪魔に取り憑かれそこから必死で逃げるイメージしかない。

 

生老病死から逃げたいブッタは出家し、苦労の末悟りを開き解脱した。

苦しみのこの生の中に多分貧乏、貧窮は含まれていたのだろう。

だが、何でもそうだが、人は他と比較して初めて辛い、苦しいと思うのだと思う。人は苦しみ、辛さのまさに渦中にいる時、あまり苦しいとは感じない物である。

過去を振り返り、辛かった、苦しかったと言うのが多い。

 

ご飯に醤油を掛けて食べる日が多く、たまに食堂で買ったおかずが少量付くこともあったが、総じて栄養失調の気があったのか、私は痩せっぽちのままで、体調はいつも悪く、エネルギー温存のため、家に篭って読書するしかなかった。

兄は後日、姉に「菊が文句も言わずご飯に醤油を掛けて食べる姿を見るのは辛かった」と語ったと言うが、本人は言う程辛くはなかった。

もう少しお金があったら楽だなぁとは思ったが

死ぬほど辛い、苦しいとは思わなかったのだ。

 

周囲の人の貧乏度も五十歩百歩で、穿くズボンが買えず、夫婦で1本のズボンを穿き、交代で外出していた人もいたし、骨付き肉をご飯に乗せて食べる金持ちもいたが、貧富の格差は大きくなかった。

みんなで渡れば怖くない式で、卑屈ささえあまり感ぜず済んだのは幸いだった。

 

その頃から、激しく降る雨が好きになった。寒い日、窓の外の篠突く雨をじっと見るのが好きになった。好きと言うより幸福だと感じる瞬間だったのだ。

貧乏ながらこうして雨風を凌げる家がある、あったかい布団があったらもっと幸せだ、と言う幸福感の中に浸れるからだ。

 

決して、現実逃避でも強がりでもなく、年老いた今ですら、その幸福度は心の中に色褪せず残っていて、雨が激しく降るほどにその幸せ度は比例して増して行く。

 

それは外から与えられた物ではなく、身体の内側から自然に湧いて来る汲めども尽きない泉のような何かであった。

 

それを私は後に貧窮からのプレゼントと名付けた。

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08

俺の家族は世界一

そうこうしている内に結婚の準備は進められた。

準備と言っても私が彼のいる天津へ行くだけである。持ち物など殆どない。

行くには汽車賃が掛かる。私の当時の月給は20元。兄が25元。

食べるだけでも不足していた。

姉は結婚して家を出ているので、実質病気の母を抱え、兄、弟、私とで45元で一家を賄っていたから余計な出費は出来ない。

 

兄は私の汽車賃をどうにかしようと親戚中に借金を考え、やっとゲフンと言う叔父から40元を借りて、私を天津へ送り出してくれた。

 

 1973年10月、私は6年間住んだ福州を離れ、家族に別れを告げて一人車上の人となった。

 

文革はまだ続いていたため、質素を旨とする風潮はまだ幅をきかせていた時代である。結婚式など到底考えられなかった。ただ、お互いにこざっぱりした色気のない人民服を着て近くにある民生局と言う機関へ結婚登記を済ませ、あとは同僚へ少しの飴を配るだけであった。

彼は天津の外国語学院の教師と言う職を与えられていたので、そこの宿舎であるレンガ建の3階が我々の新生活の場となった。

 

ある日、彼は新妻である私に、これからの生活費だ、と言って私にどっさりした包みを渡し、これで賄ってくれと言う。

開けるとそこには見た事もない赤い百元札ばかりの厚い札束が入っていた。

数千元もあったろうか、見当も付かない額である。

十元札しか見た事のない私は目が眩んだ。つい、これで何が買えるの?と私はバカな質問をしたものであった。

 

私の頭に咄嗟に、これで福州では買えなかった砂糖が、卵が買えると閃いた。

数日後、私はそれを実行に移した。砂糖と卵を買い、中にゲフンに返す40元も含めて200元ほど隠し入れて知り合いの鉄道員である張さんと言う人に託し福州へ持って行って貰った。

これで、兄達は楽が出来る。

母の動かない口もこれでパクパクと動くだろうと想像すると嬉しさが込み上げた。

 

 ある夕方、彼は「今夜は勧業場と言う有名な繁華街で外食しよう」と言い出し私を連れて行った。そのレストランは小さかったが、美味いので有名らしく混んでいた。

そこで初めて食べた事のないエビや串刺しと言った料理を見て、食べてびっくりしながら同時に泣けて来た。

 

福州の兄弟達の苦しい生活が思い出され、これを食べさせたい!と心底思うと涙が流れた。なぜ、私だけにこんな贅沢が許されるのか?と。

 

食後、今度は見すぼらしい私に服を買えと言う。彼は、沢山ある当時としては上質な山吹色の上着を選んで買ってくれた。私は上辺だけは一躍金持ち夫人になったのだったが心では砂糖や卵を買った時ほど喜んではいなかった。

 

 数日後、彼の南京大学で働く弟が我が家を訪れた。

日本へ帰る様々な手続きがよく分からず兄である彼に教えを乞うためだった。

これにはどう書けば良いのか?と色々聞いていたが、彼は「適当に書けば良いよ」と漠然と答えながら、タバコをくゆらした。

私は手作りのイカの塩辛を出しながら、なぜ、真剣に答えないのか訝しげに思い、弟が可哀想になった。弟はそれでも、納得して帰って行った。

 その後、私は彼に、なぜ、丁寧に教えて上げなかったのかと聞いたら、突然、激怒してベッドの上にあった枕やクッションを手あたり次第、私にぶん投げて来た。訳が分からず私は混乱した。

 

「俺の家族は世界一の家族だ!お前に何が分かる?俺の家族に口出しするな!」と叫び出した。

 

彼の家族を侮辱するなと言う事らしいが、私はただ、兄として手伝って欲しかったとだけ言い残し、泣きながら家を飛び出した。

 

 知らない土地では行くあてもなく、学校の運動場の椅子で暗い中じっと座るしかなかった。その間、私の脳裏にふと、一緒に旅行したアモイでの記念撮影時、おじさんに激怒した場面が思い出され、大変な人と一緒になったのかも知れないと不安になった。

表面は穏やかだがその本心がどういう人なのか、この時はまだ知る由もなかった。

 

1時間ほど座っていたら、やっと彼が迎えに来た。怒りは収まったようだったが、なぜ激怒したのか何の説明もなかった。

中国の将棋をプレイする

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青と白の陶磁器

09

​瞬間湯沸かし器

 私達夫婦の喧嘩はすぐさま全校の先生達の知る所となり、色んな先生達がさまざまなアドバイスを教えてくれたりした。

ある男の先生は、主人の学校での奇異な行動を言う。

 

先日、自分に女の子が誕生した際、教員室で子供の命名の話しになったらしい。

その時、彼が子供の命名をして欲しいと主人に頼んだと言う。

主人は色々な名前を挙げて話しは盛り上がった。

と、突然、主人が何の訳もなく怒り出し、机上にあった熱いお茶の入ったコップの中身を彼の顔へぶち撒けて先生達全員は凍り付いたと言う。それはその場にいた女の先生も同じく奇異に感じた事件だったらしい。

本当に怒る理由が思い当たらず、皆が皆、狐につままれた感覚だと証言した。

 

その時は、何かその先生が気に食わない事を言って主人を怒らせたのだろうと私は推測したが、のちのち、彼との長年の生活の経験の中で、いつの時も彼の怒りには微塵の理由もなく突然である事が分かった。

彼の怒りが収まり穏やかになった時、どうして怒ったのかと私がその都度理由を聞いても絶対にその理由を言う事はなかった。

自分でもなぜそうなるのか判らなかったようなのだ。

私の当初の推測が間違いである事を思い知らされた。

 

 

 数ヶ月後、私は懐妊した。2ヶ月だった。

我が家には金持ちしかないと言うミシンがあったので時々、そのミシンでズボンの裾を直したり、

赤ちゃんの服を作成したりしていた。

 

階下にはスペイン語の男の先生が住んでいて、ある日、私にズボンの破れを直して欲しいと持って来た。私は快く受けてミシンを踏んでいた時、主人が帰って来て、これは誰のズボンだと聞いた途端、瞬間湯沸かし器の発作が始まった。

いきなりそのズボンを切り裂き、妊娠中の私を殴った。

 

幾ら何でも理由もなくなぜ怒るのかと私も口答えしたら、彼の怒りは頂点に達し、鬼の様な形相になったのを機に、私は口答えは絶対に許されないと知って以来、彼を怒らせる言動をしないよう極力注意した。

そのため、私はいつもびくびくしていた。

 

 後に、姑と同居する事になり、彼が1〜2歳の頃、東京で小児麻痺に罹り、40度の高熱で入院し、曲がった足も手術したと言う話を聞いた時、

その時、初めて脳の後遺症がこの激怒の病因かも知れないと思い至った。

 

 妊娠4ヶ月目に入ったある夜、私は突然お腹に激痛が走り、病院へ入った。

結果、切迫流産でその子は流れた。

ミシンを踏み過ぎたなどと主人は言ったが、そうではなく、元々、妊娠初期から赤ちゃんの形を成していなかったと医者は言う。

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​10

唐山大地震

 数ヶ月後、直ぐに二番目の子を妊娠した。48歳になる今の子である。

健康で産まれてこい、良い子になるぞ、と毎日呪文のように唱えた。

この子は神に授かった子で、自分の子ではない、神様の代わりに育てるのだと自分に言い聞かせ、子育ての本を山ほど読み、臨月に備えた。

 

 神の子は5体満足で健康に産まれ我々は喜んで、ランランと名付けた。

その日から私は子育てのみに全身全霊を傾け、常にこの子の将来に今は何をしたら良いのかを考え

行動に移した。この子が3ヶ月の暑い7月末、あの歴史に残るマグニチュード8、2の唐山大地震に見舞われた。1976年の事だった。

 

震源地の唐山と天津の距離は200キロ。大地震は天津にとっても激震だった。

夜中3時、熟睡の中、私は大揺れの船の中にいて、そのための吐き気で夢から目覚めた時、地球が激しい音を立てて揺れているのを実感して身震いした。すかさず、頭の上の小さな窓を見上げた。外に雷のような閃光が走ったと思ったら、全市が停電になり、真っ暗闇に包まれた。

と同時に、一瞬、前の3階建てのレンガの建物の壁が3階から1階までスローモーションのようにゆっくり綺麗に剥がれ落ちたのがうっすらとした暗闇の中で見えた。

壁だけがなく、中のベットや棚やタンスなどだけが残ったそれは丸で未完成のミニチュアハウスを見るようだった。

 

咄嗟にまだ眠る主人を揺り起こし、ベビーベッドに寝ているランランを抱いて逃げるよう促すも、

彼も動揺したのか、足を床に下ろした途端、揺れの酷さで足を取られて思い切り転ぶが、それでも必死でランランを抱き抱えてドアの外の廊下へ

飛び出し、ダダダと階下へ降りて行こうとしながらも、また戻り、お前も早く来いと促す。私は頭では百も承知しているが、いかんせん、肝心の足が固まって動かず、ベットの上に座ったままだった。

揺れはもっと激しくなり、ミシンの上に置いた花瓶や置物が音を立てて落ち、ガシャンガシャンと恐ろしい音がそこかしこで止まない。

 

その頃、私の足はやっと脳の命令を聞いたのか動き出した。

我が家は18ヘーベーしかない一部屋で、トイレも台所もない。トイレは共同で、台所は狭い外廊下で豆練炭を起こして煮炊きしていた。横には、練炭を山のように重ね置いていて、白菜の山も雑然と置いてある。

 

それらが巨大な揺れで全廊下に散乱し、逃げ場を塞いでいた。丸で、走り幅跳びの選手のように、それらを飛び越え飛び越えて脱兎の如く階下まで逃げた。

 

他家はまだ誰も出ていなかった。ランランは主人が抱いて門の外に出ようとした時、小雨が降り出したので、彼は一瞬、子供が濡れると怯んで門内に留まった。

と同時に、誰が置いたのか二階廊下の大きな壺が揺れで外に出るのを躊躇した彼の目の前に落ちて砕け散った。子供と彼はこの雨で助かった。

 

揺れが徐々に収まった時、地震に慣れない中国人達は、やっとの事三々五々廊下に出て来た。余りの激しい揺れに、驚いたのか誰も反応が尋常ではなかった。

 

隣の旦那は、裸のままパンツ一つでタオルで汗を拭きながら、なぜか首にカメラを下げて、「クソ暑いな〜」と一言言ったかと思うと、途端に踵を返して屋内に入り、「早く逃げろ!」と言うなり、自分だけカメラを引っ提げて逃げた。中に子供3人と奥さんを残したままだった。

 

また、その隣は中年の夫婦のみで、奥さんがゆっくりした動作で練炭で火を起こし始めかと思うとブツブツと何やら呟いている。ドアが開かなかったから逃げるのが遅れたのは主人のせいだとか、こんな時火が重要だとか言っている。

 

前の部屋の人は子供1人で、ご主人は地震が収まっているのになぜか、開かないドアの前で犬が自分の尾を追っかけるようにひたすらグルグルと回っている。奥さんは子供をしっかと抱いてベットに座ったまま、その様を放心したようにただじっと見詰めている。この夫婦は後に離婚した。

 

下の80歳になるお婆さんは、泣き叫びながら、自分はこの歳になるまで、こんな災難に遭ったことはない、これは神の怒りだ〜とか言いながら走り回っていた。

 

我が家にはヒビが入り、住めない家となり、暑い夏の事とて、暫時、学校の運動場にベットを置き、そこで寝泊まりした。

 

ランランのオムツを変え、ミルクを飲ませて暑い日差しから逃れるべく、講堂の中へ子を抱いてずっと立ち尽くし、陽が落ちるのを待つ日々だった。

 

その内、運動場では感染病が蔓延し始め、我々はランランが感染する事を恐れてどこかへ逃げなければと画策し始めた。

 

彼は自転車で走れない瓦礫の中を縫って連日汽車の停車場まで通い、どうにか列車の一等席の切符を手にし我々は急ぎ福州へ行く列車に乗り込む用意が出来た。

 

 私は当時、社会科学院と言う機関で働いていたので、我々が職場を離れる事には会社の承認も必要だった。だが、表面的には革命的な職場の上司は、この緊急時に、街の復興に力も貸さず、逃げるとは反革命的だと言うレッテルを私に貼った。

 

私の反骨精神がここでも頭をもたげた。何を言うか!子供が感染して死んだらお前が責任持つと言うなら残りもしよう、その前にその誓約書にサインをしてくれと迫った。

上司は、仕方なく会議を開き、皆の承認を得られてめでたく離れる事が出来て車上の人となった。

 

 一方、福州の兄達のゴム工場ではこの地震の情報で、直ぐに遺体入れのためプラスチック袋の膨大な生産が始まった。兄は天津での犠牲者が2万人と聞いて、我々夫婦はきっと瓦礫の下に埋まっていると思い込み、すぐさま、天津までの汽車の切符を買い、私達を掘り出すための鍬を手にして待機していた。

その直前の我々の帰省で、兄は安堵し、生きている事を共に喜び合った。

 

 この大地震は唐山、天津、北京と言うそれぞれ約200キロの距離にある。

この三角地帯に壊滅的な被害をもたらし、震源地唐山は全域瓦礫の山となり、当時の共産党政府によると犠牲者は24万人と公式に発表された。

が、政府のあらゆる災害の犠牲者は小さく発表されるのが常である事を人民は知っている。

恐らく、被害者は少なく見積もってもその2倍はあっただろう。

更に、当代の指導者、毛沢東の妻の江青(こうせい)はこの恐怖の大地震を「中国には10億の民がいる、24万死んだとてどうと言うことはない」と

憎々しげな顔で公然と言い放って、全ての人民を敵に回したのだった。

 

 我々親子三人はその日から、3ヶ月余りを福州で避難生活を過ごす事になる。

シングル餃子

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青と白の陶磁器

​11

​毛沢東の死

 暑い一夏を福州で避難生活をしていて季節は

いつの間にか涼風立つ10月に入っていた。

初旬、突然、毛沢東死去のニュースで全国が騒然となり、我々にも追悼会に参加すべく急遽帰れとの通達が入ったので、5ヶ月になった娘を連れて再び天津へ舞い戻った。

 

 北京、天津はどこの機関でも皆、悲しげな顔で事務をこなしていた。

追悼会当日、天安門の広場に立った百万の国民達は「身内でもこんなに泣かないだろう」と思う程に垂れる長いヨダレもそのままに大声で抑揚を付けて泣き叫ぶ。

こんな時こそコストなき忠誠心を表現する良い機会なのか、我も我もと、泣き声よ、天にも届けとばかりに泣き崩れた。

 

我々も当然、悲しい顔を装い追悼会に参加はしたが、

その実、心では冷めきっていた。

私は心の内でこの1976年一年、周恩来から始まり、朱徳、毛沢東の三代巨頭が相次ぎ死去したのを数えて、時代はきっとこれで大きく変わるだろうと考えていた。

 

 果然、毛沢東死去後1週間も経ったろうか。党内では派閥争いが激化していて、無血のクーデターが起こされ、妻の江青を頭とした悪名高い四人組が逮捕された。

失脚のニュースが流された時、誰も彼もが、飛び上がって喜び、夜と言うのに、直ぐさま、ドラや太鼓をガンガン鳴らしながら、群衆はデモのように街を練り歩いた。

 

それ程、国民から稀に見るほど忌み嫌われた人間だったのだ。

国民を人とも思わず、威張り腐り、悪政の限りを尽くし、塗炭の苦しみに追いやり、自分だけは贅の限りを尽くした稀代の悪女だった。

 

女王然とした江青を死刑にしろ!と人々は口々に叫んだ。

その後の裁判でその通り江青は死刑判決の執行猶予を下された。

それからの牢獄生活の苦しみに耐えられなかったのか、一世を風靡した彼女は牢獄のトイレで首吊り自殺をした。往年の上海の三流映画俳優だった77歳の江青は毛沢東の妻と言う名声を持ったままその哀れな生を終えた。

 

その時、真っ先に私が実行したのが、ラジオでアメリカの声と言う番組を堂々と聞いた事だった。

 

文革中、夜中にこの番組を隠れて聴いたと身内に摘発され反革命のレッテルを貼られて牢獄に入った人がいたので、外国のニュースを知りたかった私は、それまで我慢していたラジオを、今日を境に聴ける!

晴れて普通のボリュームで聴けたのは嬉しかった。

 

 四人組逮捕で彼ら四人は権力の座から徹底的に引きづり下ろされた。

それは人民が圧政の毛沢東主義から脱却し意識転換した瞬間でもあった。

 翌1977年、政府は正式に文化大革命の終息を発表した。

 

 丸10年、中国社会は激しく荒れ、乱れ、実質、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した。不正式発表では犠牲者は3000万とも4000万とも言われた長く、残酷な文革がこれでやっと終結したのだ。

 

 思えば、私達はまるで最初から好んで満水の洗濯機の中に飛び込んだかのように、常にその渦中にいてグァラングァランとあっちへ行き、こっちへ転がされ翻弄され尽くした、止めどなく辛く苦しい10年だった。

 

これは夢ではない!本当に終わったのだ!

私の身体は一気に萎んだ風船のように萎えた。

これから中国はどこへ行くのか?世界はどう動くのか?がこの時代以降の私の思考の主題となった。

 

 それでも、庶民の苦しい現実生活は続く。我が家は、先の地震でヒビが入り危険住居になっていたが、構わず住み続けた。天津の冬は寒さが厳しい。

10月も中旬になるとコートが必要になる。その日も寒かったので、10時ごろ早々とベットに上がり、布団に包まりながら毛糸を編んでいた。

 

ベットの下を底上げして、我々二人が中に逃げ込めるよう地震対策はしていた。

と、突然、またしても今度は大きくゆっくりとした、まるで大船に乗ったかのような二回目の大地震が襲った。揺れはゆっくりと長い!

我々は機敏に行動し、彼は先にランランを抱きベットの下へ潜り込んだ。

続けて私も入ろうとしたが、入り込む余地がない。彼が子を抱いたためか身体が斜めになって、私はその斜め部分に肩までしか入れず、頭隠して尻隠さず状態で、大きな揺れに身を任すしかなかった。

彼に、もっと中に詰めて!と叫ぶと、じゃ、俺の足が出るよ。何?足ぐらい何さ、私は半身外だよ、と激しくなる揺れの中、ベットの下での喧嘩が始まった。

 

地震は収まったが喧嘩は収まらなかった。

これを機にこの人は自分さえ良ければ良いのだと不満に思うようになった。

 

 余震が怖くて、しばらく家から離れて様子見しようと、皆が近くの道路へ立ち尽くした。と、災難は容赦なく続き、今度は大雨がジャージャー降り出した。

子供だけでも濡らさないよう彼が傘とミルクやオムツを家まで取りに行き、道に立ったままミルクを飲ませたりオムツ替えたりして2時間余りを過ごした。

雨水は濁流となり、道路脇をゴーゴーと流れる。靴はぐっしょりに濡れて冷たく皮膚感覚がなくなっていた。

すでに、夜中になっていて、雨は冷たい雪に変わった。

 

今夜どこで寝たら良いのか、それだけを考えた。

幸い、ベビーカーがあったので子供の寝床だけは確保出来たが、防寒対策は万全ではなかった。その時、近くに住む東京帰りのりんさんと言うおじさんが、心配して見に来てくれた。

 

取り敢えず、今晩だけでも自分の家に住んだら良いと言ってくれたので

我々三人はすんでの所で助かった。

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​12

香港への移住

 翌日からの家なき我々はどうしたものかと路頭に迷った。

 

 中国では国の政策で個人が翻弄されることはあっても、災害に遭った際、個人が国の助けを享受する事などあり得ない。

宣伝では、国はどれだけの人を助けたかと大いに報道はするが、我々周りの人は誰一人として、その助けを受けた者はいなかった。

 

どんな災難に遭おうとも、自分や家族で解決するしかない厳しい国情なのだ。

中国で軟弱な人間は自然淘汰される。命には価値がない。

ここでは誰もが強く、へこたれない精神を持たなければ生存できなかった。

 

我々は子を抱えてその夜の寝床を探して彷徨い、寒い校庭に立ち尽くした。

そこへ、偶然、教え子である、董黎民(トウ レイメイ)と言う男子学生が一群の学生を引き連れて「先生!」と呼びながら近付いて来た。

 

聞けば、彼らは先生達を助けようと、近くの空き地に藁葺き屋根の掘立て小屋を作っている最中で、丁度一軒空いてるので、そこで住めば良いと勧めてくれた。

行けば、そこは確かに一軒だが、2家庭が住めるよう真ん中で半分に仕切られていた。半分側は例のスペイン語先生一家が住むと言う。

 

屋根は余震が来て崩壊しても生き埋めにはならない仕様で藁のみで空が見えるスカスカ屋根で、床はでこぼこ土だ。

ベットと小さな机が一つしか置けない広さしかなかったが、それでも今夜住める寝床がある事に私は感謝した。

 

寒さ凌ぎのストーブを据え、翌朝の洗顔用の水を洗面器一杯用意して眠りに着いたが、寒さで凍えて眠れず、ランランを抱いて暖を取った。

夜が明けて起きると洗面器の水はカチカチに凍っていた。

ドアを開けると、前には巨大な穴があり、そこはいつの間にかゴミ捨て場になっていて、悪臭を放っている。

それでも、赤ん坊の世話は尽きない。毎日の汚れたオムツや下着を近くの川まで洗いに行くのだが、川の水は手が切れそうなほど冷たく数秒と浸けてられない氷のようだった。

真っ赤な手で洗濯物をゴミ捨て場近くに干すも、それも乾くどころか干した形のままで凍っている。

 

これでは、ランランの生存が危ぶまれると危惧した私は、住居環境のましな家の保母を探して、そこへ預ける事にした。

そこは暖かく、おばさんも人柄が良く安心して子を任せる事が出来た。

 

 2ヶ月ほど過ぎたろうか?ある日、去年一家で香港への出国の申請を出していたのを忘れていた我々は突然、国から許可が下りたと連絡が入り、

私達は狂喜乱舞した。

 

この状態ではとても生き延びれないと感じていたからその喜びはなおさらだった。

出国と言うよりは実質脱出であった。

我々は早速、移住の準備に取り掛かり、初夏の5月、列車で南方の深センへ向かった。

 

 今でこそ、大都会と言われる中国一の経済特区として持て囃されているが、1977年当時は、ど田舎の雑草しかないただっ広い空き地に過ぎない所だった。

そこから徒歩で国境の鑼湖(ローフー)を渡るとそこは香港だ。

 

我々の所持品は殆どなく、上質の掛け布団2枚だけが全財産だった。

香港へ行けばこんなのは安くて山ほどあるのを知らなかった。

私は9ヶ月になるランランを抱き抱え、彼は大きな布団袋に入った2つの布団を両手で重そうに引きづりながら鑼湖を渡った。

国境を渡り香港へ入ると、税関の官員の殆どがイギリス人で、我々移民達にしゃがんで待てと動作で伝えた。なぜ、立つか座るか出来ないのか、なぜ、しゃがむのか、屈辱的な瞬間だった。

 

中国共産党は我々移民者にはバス代としてたった5ドルの所持金しか与えられなかったし、香港では待つのにしゃがまされた。

私に取ってはどちらも敵でしかなかった。

香港では日本から姑と舅が迎えに来てくれていて、事前に我々が住むマンションも購入していたお陰で、香港での新生活はつつがなく始められた。

 

香港での毎日は驚きの連続だった。まず、物の豊富さ、ない物は何もない。

高層ビルの豪華絢爛は言うに及ばず、交通の便利さ、整然さ、食の豊富さ、文明的で礼儀正しい人々、スーパーと言う物も見た事がなかった。

なぜ、無人であらゆる商品が整然と並んでいるのに、泥棒がいないのか。

なぜ、皆、当たり前のようにレジまで持って行き、精算するのか?

誰もいないのに、こそっと袋に入れて持ち帰る人がいないのが不思議だった。

 

独裁政治の10年と言う月日が、如何に人を愚かにさせ、無知にさせ、変質させるに充分な時間であったかをここで思い知らされた。

 

 幸いにも住む家を与えられたお陰で、新生活のスタートは順調だった。

が、当然ながら今後の生活費は自分で稼がなければいけなかった。

彼は広東語が分からないため、日本語で働ける職と言えば観光客相手のガイドしかないのでそれに従事し、私は天津では一応、翻訳や歴史研究など

していて、日本外交史と言うタイトルの本も共著で出版していたので、どうしても文筆業が主にならざるを得なかった。人の紹介で現地のTV局でドラマや映画の翻訳を手掛ける事になった。

 

PCなどなかった時代で、毎日TV局へ通い、実際に翻訳するドラマや映画を脚本と照らし合わせて見て、録音したドラマのテープを家へ持ち帰り、

1〜2日で会話全部を正確に翻訳して、またTV局へ持っていくと言うハードな仕事だった。

 

最初は私の実力を測るためか、上司は簡単な日本の子供用アニメを私に与えた。

翻訳に問題はないものの、次に控える吹き替え部門からクレームが出た。

字数が合わない、画面の人の口数と字数が合わないため、吹き替えが難しいと言うのだ。それに、香港の文化を知らないため、言葉が大陸調で意味不明と言うクレームもあって、私は上司から暫く干された形になった。

早く言えば、解雇されたのだった。

 

実力不足の自分が悔しかった。圧倒的に知識が不足している自分が情けなかった。

香港のTVは当然の事、全部広東語だ。テロップには標準語が出る。

それを利用して、私は翌日から、毎日TV浸けになり、テロップばかり見て、広東語を覚えようと努力した。他人と広東語で喧嘩できるまで言葉を覚えるのだ、期間は半年以内だと自分に言い聞かせて、本当に半年で流暢な会話が可能になり、人と早口でディベートする迄になった。

同時に、図書館にも通い始めて、読書三昧になり、それが老年になった今も習慣となり、続いている。

伝統的な提灯

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中国の茶道

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怒涛の翻訳業

 広東語の読み書きも多少の自信が付いてきた頃、私は試しに再度TV局の上司、王さんへ翻訳の打診をして見た。

 この頃は、日本のアニメやドラマ、歌などが続々と香港市場へと参入して来た時期だったので、王さんは人材が欲しいと言い、すぐにOKを出して正式に仕事が始まった。

 

だが、初っ端から頂いた仕事は「木枯し紋次郎」と「大奥」言うドラマだった。

前者は浪人が旅する半時代劇ぽいドラマ、「大奥」は時代劇そのもので初心者の自分には半端なく荷が重い。

その時代、その風来坊人物の味を出そうとすると、1〜2日では書けない代物で、頭を抱えてしまった。

 

すぐに向かった先が台湾の映画館だった。台湾は時代劇を多く制作する。

どう言う字幕が書かれているのかを参考にすべく見に行ったのだった。

日本の殿様、公家、旗本、武士達の言葉遣い、言語表現と中国大陸のそれとの違いの表現方法や時代考証もしなくては書けない。

 

 しかも、1〜2作では済まず連続ドラマで、何ヶ月も続く息の長い仕事だった。

初めての仕事は良い作品を出したいと思っていたのだが、そんな悠長な事言っていられる状況ではないし、その実力も今の自分にはない。

崖っぷちに立たされて、後には引けず、時代考証など書きながらでもできる、えい!破れかぶれだとばかりに開き直り、徹夜して書き上げたが、当然翻訳とは呼べない、直訳でしかなかった。

それでも、毎日子育てと同時進行で、恥を掻きながら騙し騙し悪戦苦闘しながら書いて行った。

 

 当初は毎日分厚い日中、中日辞典に頼りながらの格闘で、その皮の表紙は破け、

捲れ上がり、コーヒーのシミも付き、ぼろぼろになりながら使い倒した頃、

中の説明や訳が微妙に違っている事に気付いた。

日本語でこう言う訳はおかしい、中国語で今こう言う言い方はしない、

と言う箇所がかなり見つかった。私はその度に、その箇所に、自分で正確だと思う語句を書き足し、訂正して行き、3年も経つとその辞典はまったく役に立たなくなった。

今でも、その辞典は自分の歩んだ歴史記念として手元に残してある。

 

石の上にも三年と言う諺は本当だった。

がむしゃらに書き始めて2〜3年も経った頃、翻訳の難しさを改めてしみじみと味わった。

 

映画、テレビでは決められた字数が違うし、書き方やその手法も違う。

テレビドラマでの吹き替え版では、次に構えて待ってる吹き替え組の事を考えて、俳優の口元を見つめ、なん言喋ったかを常に1、2、3、4と数え、大体の言葉数を訳語で書かねばならない。

字幕だけの場合は最大8文字で表現する。

原語に忠実なのは当然だが、かと言って直訳にすれば、それは死んだ言葉となり、聞く、見る人の心は動かせない。

映画の字幕では、字数は最大12文字。観客が画面を楽しめ、且つ鑑賞の邪魔をしない程度に瞬時に理解できる言葉数がそれだった。

 

ヤクザと刑事が話す場面、医師から癌を言い渡される患者の心のざわめきと葛藤、酒乱の父との大喧嘩、などなど、人の様々な心模様を文字で表現するのは、小説を書くに匹敵する、生きた臨場感ある表現をその国の言葉で追求できなければ本物の翻訳とは言えない。

 

 その秘訣は教えられて出来る物ではなく、さまざまな失敗や挫折から身体で、体験で覚えていく物だと分かるようになる。

ただ、両国の言語が出来れば書けると思うのは、その道を知らない人の言う戯れ事か傲慢でしかない。

 

 TVドラマの翻訳は日常的に続いた。

先に日本のさまざまな人気アニメにドラえもん、アラレちゃん、おしんと次々と切れ目はなかった。

脚本を見るたびに、私は橋田壽賀子がどんどん嫌いになって行った。

彼女の書く脚本は、無駄に言葉が多い。特におしんがそうだ。そのせいで、私の書き上げる原稿も厚くなり、時間も倍になる。そのくせ、翻訳料は同じなのだ。毎回、ぶつぶつ文句言いながら書くしかなかったから、嫌い度はいや増して行くの

だった。

 

 合間に、当時の日本のタレント達も続々と香港でのコンサートを開くようになった。先にアルフィー、次に沢田研二、三輪真弓、西城秀樹達が訪れ、その度に私は駆り出され、記者会見だ、リハーサルだ、歌詞の調整のための打ち合わせだと言う仕事が爆発的に増えた。

 

本番では1、3番しか歌わないから2番目は翻訳不要だとか、テレビでのテロップはここから出してくれとか、の打ち合わせだったり、リハーサルにも来てくれと言われたりした。

 

特に印象的だったのは、沢田研二だった。意外に背丈が低く、話し方がべらんめー調で、仕事に熱心、プロ意識の強い人物だった。リハーサルの時、照明係が適当だったらしく、歌の途中で、激怒し、「ゴラ!オメーらただ飯食いに来たのか?適当にやってんじゃねーよ。プロ意識はないのか!」と怒鳴っていたのが印象的だったが本人のリハーサルは真剣勝負そのものだった。

 

それと対照的なのが西城秀樹だ。性格の良さが突出した人で人当たり良く、物腰も柔らかだった。私との打ち合わせでも、なるだけ、私の仕事を増やしたくない気遣いがあったのか、複雑な翻訳箇所は外してくれたし、仕事の話だけではなく、香港での観光はどこが良いですか?などと言う普通の話もする気さくな一面も見えた。

 

当時は五輪真弓は香港でも大人気だったためか、1月の寒い夜に屋外でのコンサートを開催した。当時、雪の降りそうな寒さで、私は仕事柄、毛皮を着て一番前席に陣取っていた。舞台裏では寒さに震えながらドレスの上から毛皮を羽織っていた彼女が、本番になって敢然と毛皮を捨て、薄いドレス一枚で舞台に立った途端、冷たく吹く風すら味方に回し、薄いドレスを優雅に靡かせ、声に微塵の震えすらなく数曲続けて熱唱したのには驚きと同時にそのプロ意識に敬意すら感じた事だった。

 

当時、映画制作で名を馳せたジャッキーチェンも日本進出を果たし、日本語翻訳者を探していたようで、私にその白羽の矢が当たり、彼と契約を結んで字幕を書き始めたのもその時からだった。

 

 そうこうしている内に、外部からも美容器具使用法の翻訳、薬の効能書、漫画、果てはポルノ翻訳まで、あらゆる仕事が舞い込んで来て、てんやわんやの忙しさの中、NHKの紅白歌合戦とレコード大賞も私の毎年の行事となり、毎年年末は歌詞44曲を3日で書くと言う殺人的な忙しさに悲鳴を上げる事になる。

 

年末年始はいつも歌詞のテロップを出すためにTV局に徹夜で詰めていなければならず、小学1〜2年生になる娘はやむなく毎年末、知人の家に預けていた。

きっと寂しかったであろう娘は、ママはTV局の仕事してるから我慢しなさいと知人に聞かされていたのか、私を責める風もなく育った。

子供は親の背中を見て育つと言う。

人はきっと言葉や説教などで成長はしないのだ。

その娘も成人し社会に出た時、初めて選んだ職場がニューヨークタイムズの記者だった。

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一休さん-生への充実感

 香港での滞在も中国のそれと同じくちょうど10年だった。

翻訳の忙しさで目も回る毎日に少し飽きて来た頃でもあった。

 

隣の芝生は青く見える。私に少し浮気心が出た時期だった。

小さな商売ぐらいだったら自分にでも出来るだろう。

私は資本金もあまり掛からないブティックを経営しようと画策し、小さな店を借りて、流行の服を仕入れる為、安くて良い服を扱う卸売り業者を町中歩き回り仕入れた。

本業の翻訳は辞める訳には行かないので、二足わらじとなる。

売り子も一人だけ雇った。私が本業で店に出られない時に任せられる正直そうな子にした。

 

内装も終わりいよいよ開業となった。暫くは翻訳は店へ持って行き、客が来ない時を見計らって書いていた。

だが、店の位置が悪かったのか、目ぼしい客があまり来ない。

TV局に行って店に出られない時は女の子に任せていた。

ある日、TV局から直接店へ行くと、その子が店の中であまりの暇さでタバコを吸っていた。タバコ厳禁だと言っていたのにその規則を破ったのだ。煙の匂いが服に付着しては売り物にならないと言うのが私の理由だった。私は即日、その子を解雇した。

その翌日から私は自分で店に出なければならない。

 

常に流行に敏感に反応し、卸屋に買い付けにも行かなくてはいけない。

店に出て、売り子もし、まだ幼い娘の世話や勉強も見なくてはいけない。

自分一手で何でもしなくてはいけない。

たった三か月のいけない尽くしで私は心身共に疲れ切った。

世のいわゆる起業家、社長さんと言う人種達が

如何に血の吐く思いで今を築き上げたのかが初めて痛いほど分かった。

こんな小さな商売でも、それを経営するには、

それなりの才能と体力、忍耐、人脈、家庭の支えなど諸々が必要なのだと知った。

 

その時ほど、自分で事業の心配や仕入れ、

店の収支決算などする必要もない、
上司の言われた仕事をただこなせば良いだけの

翻訳の仕事がどれほど楽で有り難い仕事なのかも

比較してやっと身に染みて分かった。

 

ブティック経営は3か月であっけなく閉店となった。

 

 ある日、日本で大人気の一休さんを香港でも放送したいと上司が言う。

当然仕事は私が受ける事になる。

子供向け番組と私は甘く考え、意に介さず、快諾した。

だが、2〜3作訳した時、これは今までにない手強い作品だとすぐに気付いた。

頓知だらけのアニメにはさすがベテランと称されるようになった私でも訳しようのない作品が多々あった。

今までにない障害が私の前に立ち塞がったのだ。

 

この橋渡るべからず、の立て札を尻目に一休さんが堂々と橋の真ん中を渡って行く。

中国語にも駄洒落は存在するが、塊と快などの同音はあっても、橋と端を掛ける言葉がどうしても見つからない。辞典などもはや何の役にも立たなかった。

アニメ動画がなければどうにか誤魔化しもできようが子供達は主に動画を見て理解する。どうやったら中国の子供達に直感で頓知を分からせる事が出来るか?それだけに腐心した。

 

なぜ、橋渡るなとあるのに一休さんは渡ったのか?と子供達の質問が聞こえてくるようだった。私はそういう訳語が思い付かない時の常で別の家事などをして気を紛らわせ、暫く問題をお預け状態にする。

その時も、掃除や皿洗いなどしたが、この時は頭が空にならなかった。

常に、橋(チャウ)、橋(チャオ)とノイローゼのように文字と音が頭にぐるぐる渦巻く。

ちょうど、皿洗いで箸を洗っていて、この箸では意味にならないなどと思ったら腹が立ち、その箸を勢い良く真っ二つに折った。

 

もうこの仕事はやらない!辞めてやる!筆を折るんだ!と一人でヒステリックに叫んだ。

一休さんのドラマは250集以上もある。

続けたら命が持たないと危機感を覚えた。

本当に限界だったのだ。翻訳業の危機でもあった。

私は翌日、私より年長のベテラン翻訳者の趙さんに会い、一休さんの翻訳を引き継いで欲しいと頼んだ。だが、さすがベテランである。脚本を数行見ただけで、「これは無理、翻訳者の命取りだわ」と言って断られた。

 

快諾した手前、私は締め切りを前に娘を横で遊ばせながら、旧態依然として机に座り、原稿を前に放心状態だった。中国語で橋と巧は同音だ、、。

どうにかならんか、と力なく無心になって考えていた。

そうだ!と突然、天啓が降りた。立て札は日本語だ!画像には見えても中国の子供には分からない。立て札の意味を変えて誤魔化す事はできる。

私はその立て札の意味を中国語に変換しようと思い付いた。

この橋を巧妙に渡れるか?と言う同音の中国語にすれば、頓知の面白さは半減するが一休さんが真ん中を歩いてもおかしくはない。

端をこそこそと渡るのではなく、堂々と真ん中を歩く巧みな一休さんが、苦し紛れの中めでたく出来上がった。

 

これは単に作品の1例でしかない。

毎回の作品には必ず、訳に苦労する頓知が無数に盛り込まれているのだ。

私は一休さんが終わるまで終始この頓知に翻弄され、ノイローゼすら罹った。

 

 その後、おしんと一休さんを中心に私の訳したドラマのほとんどが香港経由で中国大陸へ浸透したと言う。

殆どのこの年代に子供だった人達は一休さんだけは強烈な印象を持ったらしく、今でも、沢山の中年者達から一休さんの話を聞く。

 

 後年、知人を装った人に詐欺をされた時、中国で起訴し、裁判に出席した際、裁判官に「原告は貴重な翻訳で中国教育に貢献した人である」と紹介された時、あ〜思いがけないこう言う形で報われたのか、と感慨深かった事である。

 

善も悪も、すべて必ず報われる、ただし、それには時がある。

思慮浅い人間にはその隠れた時が分からないだけなのだ。

結婚に時があり、病気をするに時があり、子供が産まれるのに時があり、死ぬのに時がある。この世のすべてには神が創造した時があるのだ。

 

こうして、全集250集以上の一休さんを訳し終えた時、私は力尽き、

 一気に5〜6歳は老けたように見えた。まさに、それは命を削った時間だった。

点心

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横断歩道

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夫の暴力と神秘体験

 香港へ移住したての頃、私達夫婦はお登りさんよろしく、香港島一の繁華街と呼ばれるコーズウエイベイと言う街へ行った。

娘はまだ一歳になるかならないかだったので、私がベビーカーを押しながら人のごった返す中を夫を見失わないよう付いて歩いていた。

 

と、日本の松坂屋デパートが見えたので、「あ、松坂屋がここに、、。」私が言い終わらない内にいきなり彼の鉄拳が私の頭上に下りた。

私は呆然と口を開けたまま彼を見た。何なの?なぜ?理不尽な暴力はいつもの事ながら、いくら何でもそれは酷い、と顔に出てたのか、彼は再度怒りに任せて殴り掛かってきた。

突然の事に、沢山の人の目が私達に集まっている。皆は私が何か悪い事をして、主人から懲罰を受けているとでも思っている風だった。

 

私は素早くそこを離れて別方向へ逃げた。ベビーカーを押しながらどこまで歩いたのか、ここは何処なのかももはや分からなかった。

言葉も分からず、バスに乗る小銭すらなく、何処へ行けば家へ帰れるのかも分からない私と娘は路頭に迷った。泣きながらひたすらそこら中を歩き回った。

さっき、何か彼の気に食わない事言っただろうかと思い返し自問しても、いつもその答えはなかった。

 

 思えば、結婚したての頃、彼の3つ上の兄が彼と歩いていた。

私はそのすぐ後ろから付いていた時だ。

「嫁が言う事聞かない時の秘訣は、言う事を聞くまで思いっきり殴るんだ。

そうやって、従順にさせると良い」と言ったのが聞こえて私は少なからず驚いた事を思い出していた。

 

 彼の家は男ばかりの四人兄弟だ。

総じて、温厚で上品、好印象な兄弟ばかりだったので私は兄の言う言葉に耳を疑った。だが、そんな兄でも嫁にはとても良き夫で、暴力を振るう事はなかったと兄嫁は言う。

他の二人の弟も、嫁達に聞くと暴力は言わずもがな声を荒げる事さえあまりないと言う。

なぜ、彼だけがこうも理解しがたい奇怪な性格をしているのか?

 

そんな事を考えながら歩いていたら、急に彼が眼前に現れた。

私達が道に迷って心配して探しに来たのか、疚しく思ったのか、「帰るぞ」と一言言って前を歩き出した。

 

 娘は徐々に成長し、小学校に上がった。香港で日本人居住者は多い。

学校の同級生のママだったり、パイロットの奥さんだったり、色々な日本人と知り合い、その内、不定期に皆で集まってお話し会なる会に時々参加するようになった。

その日も、五人ほど、それぞれ子供達も連れて遊ばせる意味合いから、食品持ち寄りで楽しい時間を過ごした。

話も盛り上がって時間はいつの間にか夜12時を回った。私は慌てて娘とタクシーで帰宅したが、案の定、彼は激怒しながら待っていたらしい。

「お前は不良嫁か!こんな遅くまで子供連れて何処ほっつき歩いてた!このバカが!」罵倒しながら殴る蹴る、挙げ句には倒れた私に馬乗りし、髪を引っ張り床を引きづり回した。

静かな夜とて、私がここで声を上げると近所に聞こえる事を考えると痛みに我慢して声を呑んだ。反抗しなければすぐ収まると思ったのだ。

 

彼の怒りはそれでも収まらず、更に殴打が酷くなったので、私は堪らなくなり家を飛び出し、松ちゃんと言う知人の家へ向かった。松ちゃんは、私のピンポン玉のように青く腫れ上がったまぶたを見てびっくりしたようだ。

慰めてくれ、しばらくここへ泊まるように言ってくれた。

私はまだ小さい娘の事が心配でならなかった。家事など何一つできない彼に子供の世話は絶対できないのだ。どうしたら良いのか、困惑するのみだった。

 

「貴方がここに居ると電話しといたからね。幾らひどい人でも2〜3日したら絶対迎えに来るからそれまで、家で寛いでなさい」松ちゃんはそう言う。

だが、3日経っても電話一つもなかった。向こうも、意地を張ってるのかやっと電話が来たのが1週間後だった。

しかも、ただ一言、「帰って来ないつもりか?」だった。

 

 ある年の秋、彼の日本にいる両親が北京へ遊びに行くと言う。

バカが付くほど親孝行の彼は、では、通訳として我々夫婦が一緒に付いてやると言って、丸2日掛かる北京行きの汽車の切符3人分の手配をした。

それまで、咳込みが止まらなくなって1週間ほどだった私の体調がその直後から、胸痛と呼吸困難も始まり、寝込んでしまった。病院へ行って検査すると、珍しい肺結核が進行中だと診察され、全治3年と宣言された。

 

これでは、もう寒くなり始める北京など行けそうにもなく困惑してしまった。

私がベッドで咳き込んでいる最中、彼は怒りが収まらなかったようで、殴りこそはしなかったが、乱暴な態度で、「まったく!よりによってこんな時に!絶対行かなきゃダメだぞ!」と威嚇した。

 

私もどうにかしたかったが、体調だけはどうにもならない。

「最悪、貴方とランランだけでも行ったらどう?」と言っても、「お前は孝行と言う事を知らないのか?」と言われるのだった。

出発3日前、相変わらず体調の悪い私を見て、「さっき汽車の切符キャンセルして、代わりに飛行機チケットを予約したから、当日飛行機で来い」と言う。

飛行機だと2時間で済むので、それなら良いだろうと思ったようだった。

2日前に彼と小学生になる娘は先に汽車で出発した。

一人になった私の体調はそれでも最悪で寝たきりだった。

行かなければ暴力が待っている、行けば行ったで周りに迷惑かけるし、病気の悪化も考えられる。解決方法は何もなかった。万事休すの私はなるだけ、風邪引かないように暖かい毛皮を知人に借りて出発の用意をするしかなかった。

 

 出発日、私は結核病院で撮ったレントゲン写真や薬、診断書などを持って一人で機上の人となった。北京へ行ったら再度、向こうの病院で診て貰おうと考えていたのだ。離陸して40分ぐらいしたろうか、私は咳き込みながらトイレへ立って席へ戻り座りかけた途端、何かに感電したような感覚になったと思ったら、突然、身体がふわっと軽くなり、それまでの胸の痛みや咳もなくなり、健康体に戻ったと言う感覚を持った。それは本当に一瞬の出来事だった。

それから北京着陸まであらゆる不調は消え去っていて、快適だった。

この神秘的体験は非常に特異で、奇跡とか狐につままれたとしか言いようがない。

 

北京到着は夜8時、外は寒かった。出口で待っていろと言う彼の指示通り、私は待った。気分はもうすっかり良く体調も最高だった。

だが、彼は1時間待っても現れず、やっとタクシーから降りて来たのが2時間後だった。「ごめんごめん、お袋たちと話してたら時間忘れた」と言う。

肺結核で重病の妻を寒い中、長時間立たせてごめん、の意味だったろうが、私は心の中で憮然とした。この人は私を何だと思っているのだろうか?

 

私は不愉快な気持ちのまま両親の住むホテルへ向かった。

ホテルでは豪華な会食の最中で、義母は私に

「その位の病気は何と言う事もない、病は気からと言うでしよ。気にしないで。さ〜食べなさい」と勧めて来る。皆んな人の苦しみも分からずいい気なものだ。

 

 

 翌日、両親が観光に行く前に、私だけ、用意していた諸々の診察書類を持って、先に北京一と評判の協和病院へ診察に行った。体調は変わらず最高に良かった。

そこでも、レントゲンを再度撮られ、色々な検査をされたが、肺はきれいで、咳もなく、肺結核の兆候は何もないと言う。

香港での書類など見せたが、確かにこのレントゲンを見ると重い肺結核だが、今はそれが見られないと言うばかりだ。香港で診断を受けてたかが、1週間しか経っていない。肺炎ですら治るのに1〜2週間は掛かるのに治癒に3年は掛かる私の重い結核はあの飛行機の上で物の数秒できれいに消えた!

あの誰も信じないであろう神秘的な体験は本物だったのだ。

私は確かに空で神に出会ったのだと信じるしかなかった。

 

北京で元気に一週間過ごし、香港へ戻ってから、逆に今度は北京の診断書など持って再度あの病院を尋ねた。「北京の病院は遅れてて、ろくな先進的設備はないからね。」と医師は面倒臭そうに言い、北京の診察を無視して又ここでもう一回レントゲンを撮れと指示した。

結果は北京と同じで結核など微塵もなくきれいな肺に戻っていた。

私は飛行機の中での奇跡を言っても信じてくれないと思い、黙っていた。

「絶対おかしい、診断に間違いはなかった、短期間で治るはずがない」医師は頭を捻るばかりで、念のため、半年一回は定期検診に来なさいと言ったが、それ以来、結核病院との縁は切れた。あれから38年、今もって肺はきれいなままである。

 こう書いていると、彼が如何に虐待魔で酷い人だと思うだろうが、公正を期して書くと普段の彼は温厚で人当たりが良く、嘘を付けない、飲む、打つ、買う、をしない、いわゆる他人から見ると非常に良い人なのだ。

ただ、自分の中で突然沸く激しい怒りを抑える術を知らず、間欠的な暴力に訴えるしかない性格だとこの時は思っていた。

 

 私の実の兄はどうしても表面は温厚な彼の暴力が信じられないらしく、「お前が悪いからだろう」と私が悪者にされるのが常だったので、それ以来、私はあまり彼の暴力を言わなくなった。

結局、それが私の試練だったのか、彼が死ぬまで私は彼の突然の暴力に我慢し続けなければならなかった。

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病と気功

 思い返せば香港での10年も物質的には豊かだったが、身体的な面では持病の心臓も悪化し、精神的には彼の暴力などもあり過酷な日々だった。

 

 ある日、近くの海辺で当時流行していた気功健康教室を覗いた。

少しでも健康になりたい一心で自分でも気功の本を読んでいたので1〜2回参加した。その夜、横になって気が自分の中を巡り、最後に丹田にその気を溜め込む、と言う意念の気功を試しにやって見た。

 

念が強かったのか、始めて5分もしないうちに、突然、気が、と言うより、全身の血液が四方八方から急激にお腹の下へ集中して流れ込む感覚がしたと同時にひどい眩暈と心臓も早鐘の如くドキドキと打ち始めて、私は怖くなり、衝動的にガバッと起き上がって、ベランダへ立った。

 

早すぎる心臓の鼓動で心が落ち着かずじっと立つ事ができない。

気が大量に下腹部に留まっているのが分かった。

目が回りながらも恐怖で部屋中をぐるぐる夜通し歩いた。

夫もびっくりしたらしく、どうした物かと一緒に心配して寝られず、それは朝方まで続いた。夜が明け始めた頃、気功の先生へ電話して来て貰った。

 

先生はすぐ来て症状を聞き、「長らく気功を教えているが、初心者が直ぐに気が巡るのを初めて見た」と驚かれた。先生はまた、この症状は多分魔境に入ったのだろうと言う。気功は奥が深く初心者が誰の指導も受けずにすると魔境に入る危険性があるらしい。

 

とにかく、身体から余計な気を出さなくてはいけない、先生は私を前に立たせて、気を頭から足裏まで流せと言う。

やり方が分からないまま、頭に気がある、その気が足裏から抜け出る、と想像しながら何度も何度も両手を額から足まで下ろす姿勢を繰り返した。

 

夫は小馬鹿にした顔で、「今時、シャーマンか」と薄ら笑いしながら見ていた。

私は真剣だった。と、しばらくしていきなり、一陣の風が全身を吹き抜けた。

確かに足裏から明確に風が吹き抜けた感覚が走った。

気の正体は風だったんだ!と妙に納得した。

まるで、吹き矢から吹かれた一陣の風が足底から抜け出た感じだった。

あ〜抜けた!と叫んだ途端、見ていた夫が「気ってほんとにあるんだ!」と言って驚いたのが忘れられない。

 

 だが、先生はこれ一回だけではまだ邪気は抜け切っていないと断言し何度もやり直しを指示したが、何度やってもそれ以上は抜けなかった。

 

それ以来、私は自律神経失調症と診断されるほど病は酷くなり、食欲は一切なく、たとえ、お腹空いたと思っても少し食べると全部吐いてしまう。

いつも頻脈で、何かに怯え、不眠、便秘、眩暈、冷や汗、のさまざまな症状が日替わりメニューのように出現して衰弱して行った。1ヶ月で10キロ体重が落ち、仰向けに寝ると凹んだお腹には水を入れるとお盆のように溜まる。

鎖骨には石鹸が置けた。特に、一人恐怖症と自分で命名した症状には参った。

 

一人で家にいる時、エレベーターに一人で乗った時など、一人になると、突然恐怖が湧き、又頻脈が起きるのだ。私は自宅で一人で新聞が読めなくなった。

とにかく、人の往来のある戸外のベンチに座って読む。エレベーターには、人が乗るまで待つなどして対応していた。後で聞いたのだが、周りの知人たちは当時私の異常な痩せ方を見て、癌末期で、死期が近いと思っていたらしい。

その激しい症状は2年ほど続き、その後、漢方を服用したりして、激しさは若干緩和したものの、依然として7〜8年は続いた。

 

そんな時、日本の舅たちから日本へ戻って同居しないかと言う打診が入った。

私は娘の学校の事、同居によって発生する矛盾、経済的な事など考えるとなるべく同居はしたくなかったが、親孝行な夫はその気になっていた。

 

私は自分が10年ごとにあちこちを渡り歩くジプシーの気分になっていた。

だが、そのどれもが、自分の選択したものではなかった。

 

 色々な病気と複雑な気持ちなど抱えながら

今度は日本横浜へ舞い戻る事になった。1988年、39歳になっていた。

香港のスカイライン

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山の頂上

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同居と舅の死

 横浜山手での姑達との同居生活が始まったのが39歳だった。

思い返せば、事前にシナリオがあったかのような

約10年と言う区切りで各地を渡り歩き、得がたい困難に遭遇し、奮闘し,泣き、苦しみに足掻いた半生だった。

階段で例えると、今回は一段上がった、更に難しいステージへと登った感覚があった。

 

それは自分で思い悩んで選択した道ではなく、

何かに背中を押されて仕方なく登る、まさに誰かに動かされていると言う感触だった。

 

娘は近くにあるインターナショナルスクールへの

の入学も決まり、新生活がようやく始まった。

 

煩雑な生活に伴う矛盾のほとんどは台所から始まると私は思っていたので移住に際して、私の出した唯一の条件は経済を別にして欲しい事だった。

それは快く受け入れられ、古い二階建ての二階の台所だけは新しく建て増しされ、いわゆる二世帯住宅風にした。

私達の生活空間は一階、姑達の空間は二階と一応区分分けされて新生活は難なくスタートを切った。

 

 舅は10代の頃、中国福建から単身で日本の京都へ渡来し、京都中、反物を売り歩いて生計を立てていた。恐らく京都で姑とお見合いをし、結婚したのだろう、長男と夫の次男をそこで産んでいる。

戦争中だった当時の舅達の苦労は並大抵ではなかっただろう。

学歴なく、お金なく、食うや食わずで反物を売り、子を育てた舅の性格は質実剛健、雷オヤジと呼ばれるほど怒りっぽい頑固な明治男だった。

片や、姑は大正生まれの中国籍だが、日本で生まれ育ったためか、人当たりが良く、嫁いびりもせず優しかった。

 

後で知った事だが、舅の母親は生粋の日本人で長野県の名家の娘で名前を春子と言う。舅は今で言うハーフだったのだ。

この春子さん、なかなか気骨のある人物で、中国人との結婚で親の大反対を押し切り、駆け落ちして夫と一緒に中国福建に渡ったが、頼みの夫はそこで病死した。それからは日本人と言うだけで酷い差別に遭い、石を投げられ、いじめられて、いたたまれず幼い舅を連れて日本へ舞い戻った。だが、自分は中国人と言う誇りがあったのか、銀座へ行く時など、頑としてチャイナ服を身に纏っていたらしい。長野の実家からはすでに勘当されていたので母子二人の生活は苦しかったと言う。

その母、春子さんが亡くなった時、舅は仏壇を買うお金もなく、数日遺体に寄り添い、みかん箱を貰ってそれを仏壇にした。

 

 数年後、舅は家族で京都から東京へと居を移し、浅草でコックとして働いた。ある程度貯金が溜まった舅は、投資として浅草の土地を購入した後、独立してそこで小さな食堂を始めた。

終戦前後は誰も貧しく、砂糖や食糧も統制されていたため、国民はおしなべて、栄養失調気味であった。

 

だが、食堂経営者には国から特別な配給があったので、舅達の食堂は大繁盛だった。どんなものを作っても飛ぶように売り切れ、毎日、現金を数えるのに喜びの悲鳴を上げていたと言う。そうして、舅はまた溜まったお金で今度は東京駅の真ん前八重洲口の土地を購入した。当時、賑やかな浅草に比べて、大空襲に遭い焼け野原と化した東京駅など、バラックばかりで、ぺんぺん草が生え、とても将来性があるとは思えない投資だったらしいが舅には先見の明があったのか、敢然と繁栄した浅草を捨てて、拠点を東京駅と新宿に構えた。続けて横浜、鶴見と投資を広げて行き、同時に麻雀店やパチンコ屋なども手掛け、舅は着実に一代で無から巨万の富を築いたのだった。

 

そんな舅達と同居し、忙しく過ごして一年ほど経ったろうか、その日は、何かの特別な日で、二階で夕飯を一緒に食べた。82歳にもなると言うのに

舅は肉が大好物だったので、献立を牛ステーキにし、楽しく食した直後、舅は膨らんだお腹を摩りながら、「あ〜今日は良い日だ。久しぶりに美味しく食った。満腹だ」と赤らんだ顔で満足気に言って自室で横になった。

 

その夜中、姑が階下の我々の部屋を忙しくノックした。

何だか慌てていて、言葉にならずただ、「おじいちゃんが、、おじいちゃんが」と言うばかりだった。

咄嗟に異変を察知した私は、二階へ駆け上がって舅のベッド脇に座り、心臓に持病のある舅の手首の脈を見たが、不整脈も頻脈もなく正常だった。

続けて、背中をさする。くすぐる。反応はどれも正常だ。

舅にまだ意識はあったようで私の質問に答えようとするが、それより首の辺りが痛いのか、「うーうー」と唸りながらしきりに握りこぶしで首の側面を擦り上げる動作をするばかりだった。

 

私は今度は足裏をくすぐった。何の反応もなかった。そこから恐らく問題は脳にあると判断した私はすぐさま主治医に連絡したが、真夜中とて、「明朝まで待ったらどうですか?」とすげない答えだった。

これは待てる案件ではない。私の動作は早かった。今度はすぐに救急車を呼んだ。

救急隊員が電話越しに症状を聞いた。私が報告すると、あの主治医同様、「そう言う症状だと朝まで持つと思いますがね〜」とまるで来る気がない。

私は粘った。いや、これは緊急事態ですのですぐ来て下さいと必死に頼んだ。

 

舅は15分後病院へ運ばれてすぐに昏睡状態に陥った。脳のレントゲン写真はすでに真っ黒になり、脳死状態で、救いようがなかった。大きな血栓が太い頸動脈に詰まったらしい。

それで、しきりにゲンコツで首をさすり上げていたのだ。

 

それから8日間、舅は一度も目覚めず静かに息を引き取った。

その間、私は一刻も休みなく動いた。舅のパジャマの着替え、汗拭きタオルの交換、死に近づくに連れて冷たくなって行く足先を温めるための湯たんぽの用意。

汚れ物を自宅へ持ち帰り洗濯してまた持って行く。

 

12歳になる娘にもおじいちゃんの側へ座らせ、

硬く冷たくなって行く足のマッサージをさせた。

徐々にこの世界を去り行く命を彼女に見せたかった。

ここではどんな言葉も必要なかった。ただ、ただ感じるだけで良い。

冷たい足がゆっくりと、更に氷のように冷たく変化して行く様を。

皮膚の色が徐々に紫色に移り変わって行く様を。

それを黙って触って感じるだけで良い。

それは滅多にない命の授業なのだから。

82年もの間、舅の中にあった偉大な源泉は片時も休む事なく、その肉体を温め続けて来た。

今、この躯体から離れようとしているそれは何処へ向かうのだろう?

束の間でも良い、そんな事に思いを馳せる事は彼女にとって稀有な体験となり、貴重なこれからの人生の糧となるに違いない。

 

姑と兄弟達皆んながベッドの側に集まった。

話すともなく、話題は葬式の話しになって、姑はどこでどうするかを息子達と話し合う。私は、心の中で、「まずい、こんな話しを舅の前で話すべきではない」と思い、夫を呼んで外で話すようお願いした。

夫は「どうせ、本人は昏睡状態だから分からないよ」と言いながらも、同意して私と娘だけ残して外に出た。

 

その直後だった。無意識のはずの舅の目尻から涙が一筋ツーと流れて首に伝った。一度は拭いたが、また音もなく流れ伝った。

私は舅が皆と最後の別れが出来ないのを悲しんだのか、それとも葬式の話しで自分の死が確実になったと悟って悲しんだのか、その両方かもしれない。肉体は動かず、死んだようになっても意識は

死なない。すべて鮮明に聞こえているのだ。

今は何も言えない舅の心情が途方もなく悲しく哀れだった。

 

死に際しては、誰もが平等に独自で立ち向い、自力で乗り越える術しかなく、張り裂ける痛みで慟哭する家族さえも1ミリもその死を共有できないのだ。

そんな道理は、頭の中では誰もが分かっている。だが、過酷な現実に直面するとそんな理屈はどこかへ吹き飛び、嘆き、怒り、苦しみ、悲しみに、人の心は簡単に押し潰され、呻めき、なぜ助けてくれないのかと神さえも呪ってしまう。

人はこうして初めて自分が決して強くなく、愚かでいかに無力であるかを悟る。

 

その後、夫へ舅の涙の話しをしたら、ただの目から出た汗だろうと一笑に付された。

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実母の死と歪んだ親孝行

 舅の一連の葬式、納骨、墓の手配など気忙しい日々が続いた後、気が付いたらいつの間にか平穏な日常は戻っていた。

 

 私は横浜へ来てから、東京の東北新社と言う映画関係会社と翻訳の契約を結び今度は中国語から日本語への翻訳をするようになった。その内、中国語の映画やドラマなど、台本自体ほとんど英語で書かれるようになったため、仕事は先細りで、数年後には自然と仕事はなくなっていった。

 

 そんなある暑い夏の日、今度は北京に住む私の実母が亡くなったと言う訃報が入った。出来事はいつでも前兆もなく不意にやって来ては人の心を掻き乱す。

39歳の時から脳軟化症で半身不随だった母は、ずっと寝たり起きたりで、その内寝たきりになり、糖尿病になって72歳で突然ポックリ逝ったと言う。

私が結婚するまで介護役は私だったが、結婚してからは、兄が引き継いで見てくれていた。その母が亡くなったのだ。

 

私は心早る思いですぐに飛行機のチケットを手配した。

利己的な夫の思いは大体分かっている。

多分、一緒には行ってくれないと見込んで自分一人だけのチケットを予約しその夜夫へ報告した。その途端、彼の顔色が変わり、むすっと不機嫌になった。

 

え?一緒に行ってくれとは要求してないのだ、もしかして私一人だけでも行かせないつもり?

相も変わらず、不機嫌の原因は分からない。母の死?黙ってチケット予約した事?私一人でも行かせたくない?

その時は、もう慣れっこになっていたので、私はそれ以上詮索せず、続けて家事をこなしていた。

 

私は多分母の葬式で1週間は家を空けるだろうと推測し、1週間分の会社へ着て行く彼のワイシャツにアイロンを当てていた。

私の心の中は、母の死の悲しみ、親孝行が十分できなかった無念さが渦になって湧き上がっていた。

突然、彼はむすっと見ていたテレビを消して、何も言わず物に八つ当たりし出した。リモコンを壁に投げたり、本を力いっぱい足で蹴ったりした。

この人はいつもホントに何なんだ?何が気に食わないんだろう?

聞いても答える訳がない。私はいつものように、消去法で推察するしかなかった。

 

私が彼に何の相談もなくチケットを予約した事、

母の死によって自分の日常が乱されるのが気に食わない。

 

きっとこのどれかに違いないと思った。

その少し前に、2階の姑が訃報を聞いて、香典2万を包んで持って来てくれていた。

私を行かせたくない彼の理不尽さに対する悔しさと母を失った悲しみの思いが重なり、心は千々に乱れた。抑えきれない大粒の涙が、ぼたぼたと熱いアイロンの上に落ちてはジュッと湯気が立ち上り、シャツが霞んで見えなくなった。

ただ、泣けて泣けて仕方がなかった。

それでも涙を拭きながら辛うじてアイロンを掛け続けたが、とうとう途中で堪忍袋が切れた私は

姑から貰った香典袋を彼に向けて思いっきり投げ付けた。

この時初めて私は彼に楯突いた。

 

「人の死を何だと思っているの?私を葬式に行かせたくないのね?今日の事は一生忘れない、貴方にはもう何の未練もない」そう言いながらも、哀しい主婦の性(サガ)でシャツをきっちり畳んで彼が毎日交換できるよう、引き出しへ仕舞い込み、明朝出発のための荷造りを黙って始めた。

 

「いや、行くなとは言ってないよ。勝手に行けば良いさ。ただ、二階のお袋の世話は誰がするんだ?こっちの方が大事だろう?それにランランは誰が見るんだ?俺には見れないよ。一緒に連れて行けよ」

 

怒りながらもぼそっと不機嫌の原因を初めて明確に口にして私を更に驚愕させた。私の推測は完全に間違っていた。

すべてが彼の意に叶う親孝行をしない私が原因だったのだ。

私の母の葬式より、自分の元気な母を大事にする方が先だと彼は明言したのだ。

 

姑はまだ67歳、心臓病の私よりも元気で毎日八重洲まで1時間掛けて遊びに出掛けている。私より早く横断歩道を渡る。

食事は別々で、私達に気兼ねなく自由に食べている。

舅を亡くしてからは前にも増して自由を謳歌している風でもあった。

これ以上どんな世話が必要と言うのか?

彼の親孝行の基準がどれほど非常識で理不尽だったか後から更に嫌と言うほど思い知らされる事となる。

 

先に姑に香典を頂いた時、私は恐縮しながら、私が不在時、水槽に飼っている金魚に2〜3日一回で良いから水槽の横に置いてある餌を与えて欲しいと頼んだ。

パラパラと少し撒くだけなら手間はないだろうと思ったのだ。

姑が答える間もなく、彼がすかさず怒りながら私にこう言い放った。

「何、親不孝な事言ってんだ!馬鹿じゃないかお前。」そう言った後、姑の方へ顔を向けて「お袋、気にする事はない。餌なんか上げる必要ないよ。こんな金魚死んでも構わないから」と。

私は自分の耳を疑った。

この人の奥深くに潜む歪んだ性格を垣間見た思いだった。

 

 翌朝、私は娘を連れて重いスーツケースを片手に家を出た。

家の前は40段ぐらいの急なでこぼこ石段だ。

出る時、まだふて寝してベッドにいる彼に「行って来ます」と挨拶しても、布団を被ったまま彼は返事すらしなかった。

もとより、近くの駅まで送って貰えるとはさらさら期待してはいなかったが、布団の中から「いってらっしゃい」の言葉さえ貰えなかったのは、さすがに怒られるよりショックであった。

この事件のしこりは彼が死ぬまで若干薄れはしたが完全に消えはしなかった。

桜の木

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​心臓病と瞑想までの道のり

 実母の葬式も終えて日本へ帰ったのが10日後だった。

あれ以来、夫との関係は以前にも増してぎくしゃくした関係になった。

だが、表面上、姑の手前もあり仮面夫婦を演じていたように思う。

 

心臓も悪化していたのか、頻脈や不整脈が多発するようになった。

短期のストレスは自分の成長の起動力になるが、長期のそれは身体に多大な危害を加えるストレスとなり、結果重病や死に繋がる恐れがあると言う研究がある。自分の今までの経験からそれは十分な説得力があった。

頭の中は常に夫に対する不満が渦巻き、恐れ、憎しみ、不満、愚痴、加えて、自分の健康が蝕まれて行く心配、恐怖も相まって、負の感情は止まる事がなかったのだ、身体に悪影響がない方がおかしかった。

 

夫婦で外出し、階段を登って自宅に着いた途端、不整脈発作が始まる事もあった。

横になれば収まるかと暫く休んでも収まらない時があったので、恐縮しながら夫に「悪いけど下のタクシー呼んでくれる?病院行くから。」とお願いした事があった。彼は、露わに嫌な顔になり、「面倒くさい奴だな、何でもっと早く言わないんだよ」と私を責めた。

 

疲れて帰ったのに、また用事言い付けられるのも嫌なのは理解できる。

でも、こればかりは自分でコントロール不能なのだから、私とて言いたくないのだ。発作を起こして病院行くのは慣れっこになっていたため、私はいつもタクシーで一人で行き、注射して収まってまた自分で帰るパターンが多かった。

 

何度も病院の往復しても収まらず、効力ある薬もなく、どの医師も打つ手がなかったのか、その内、匙を投げられた形になった。

どの患者も辿る道なのか、私は色々な民間療法に頼るようになった。

気功で治ると聞けば一回で10万もする気功師に診てもらい、有名な漢方の先生がいると聞いては早朝に新幹線に乗って遠くまで行った事もある。

そのどれもが、お金の掛かるとんでもない詐欺師だったりして私を失望させた。

 

どんなに外の名医を探しても結局自分の病は治らないのだとある日気付いた。

望む物は外にはない、全ては自分の内側にあるのだと妙な確信があった。

医師が治せないのだったら、自分で治すしかない!と決心した。

 翌日から医学を勉強しようと図書館通いが始まった。

毎日通って、最初は心臓の勉強から始まり、その内関連する内蔵、神経、血液、血管、脳まで一通りの勉強をしているうちに、ふと、そもそも身体は何で出来ているのかと言う基本も知らない自分がいた。

それを知るために今度は物理学、特に量子力学の勉強を始めた。

学校のように系統立てて勉強せず、好きな分野だけ好き勝手なつまみ食いだったのでストレスもなく知る楽しさに貪欲になって行った。

 

分子、粒子、原子、量子の基本を大体は理解したが、私の身体、もっと言えばあらゆる万物は突き詰めて行くと全てが原子で出来ていて、その中身は全部スカスカの空洞だと言う。

固いコンクリも机も肉体も植物も例外なく究極は虚無だと知った時、心底ショックで、自分が今まで如何に無知だったかを思い知らされた。

続けて、原子よりももっと小さい量子が全宇宙に充満している、宇宙は実は真空ではなかった、そればかりか、私の周りも量子に囲まれているのだった。今度は心は宇宙へ飛び、天文学を知りたいと知識欲は止まる事を知らなかった。

 

既知の範囲が広ければ広いほど、未知との接触は多くなるようだ。

知識を得ると言う事の楽しさ、醍醐味は同時に自分を知ると言う事でもある。

私は自分が何者なのかを知りたくて仕方なかった。

 

図書館通いは数年続いた。脳学を勉強していた時、たまたま立花隆の脳学を読み、彼の臨死体験も関連本として読んだ。

その前にも自己の神秘体験を機に、見えない世界を研究していたスェデンボルグと言うスェーデン王国の天才科学者の書籍も読んでいた。

科学のみ研究していた彼は50代で科学の限界を知り、それまでの知識を全て捨て去り、霊の研究に没頭して数々の本を出版していた。

従って立花隆の臨死体験には何の違和感もなく至極当然の事象として読めた。

 

量子力学では人の意識にも言及し、それを波として捉えている。

その意識、波は物質に変化する要素を持つ。中国では古来からそれを気と表現していて、インドではプラーナと呼ばれている。道教では深山幽谷で

修行する僧の上級者の中に仙人と呼ばれる人達がいる。

これは伝説ではなく彼らは今でも本当に存在する。

彼らは瞑想によってほとんど食べる必要がないため、霞を食う仙人と称される。

この霞という表現が、物理学で言われる波に匹敵するのだ。

それらは表現の違いこそあれ、宇宙に充満する量子と同等視できた。

波と霞は虚空で無なのだ。そこには何もない。

が、実際そこには全てが内在する。万象はその無から生じ、また無へ戻ると老子は教えている。それは基本的に量子力学の理論と一致していた。

 

コップに滴り落ちる水の最後の一滴がコップから溢れ出たかの如く、ある日突然、意識と科学とが自分の中で融合したと言う感覚を持った。

完全とは言えないまでも2500年前の釈迦の教えと現代科学の融合がここにあった。

私は勢い、インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」老子の「道徳経」ユング、般若心経、易経など意識関連の本を手当たり次第に大量に繰り返し

読み漁り、自分の中で反芻し、咀嚼した。

 

徐々に、現実の物質世界はすでに私の数多の疑問に回答してくれなくなっていた。

科学は再現性を重視する。見える物だけを研究して行く。だが、皮肉な事に見える物質を追求して行くと必ず究極の見えない物にぶち当たる。見えないから当然再現性はない。科学とは呼べないから、研究費は下りず、研究は頓挫して、仕方なく見えない物を迷信と名付けて無視せざるを得ないのが現代科学の限界なのだ。私の多くの解明できない疑問は行き場をなくしてしまった。

 

 話は飛ぶが、メビウスの輪と言うのがある。

1800年代にメビウスと言う数学者が発見した、今では芸術や数多くの分野で利用されているユニークな輪である。

長い紐を一回転捻じ曲げて先を繋げると裏表のない途中少し歪んだ帯が出来る。そこに、アリを時間差を付けて二匹這わせると、先のアリはいつの間にか自然と裏側へ這って行き、後のアリはまだ表を這っているので先のアリが忽然と消失したかのように見える。これと同じで、現実の中で見える物質を探求していたらいつの間にかするりと見えない量子の世界へ入ったと言う、自分にとって意識の探求はごく自然な流れであった。

因みに、私は後にこのメビウスの輪の繋ぎ目を勝手にあの世とこの世、次元の別れ目だと解釈している。

漠然とした抽象的な意識と言う見えない波、波動、気とはどんな物か?

書物だけでは物足りない、現実の科学では教えてくれない、自分の心に渦巻く多くの疑問は独自で解明するしかない。

それには自身で体験しなくては分からない。興味と探求は尽きなかった。

 

自分の病気を自分で治すと決心して始めた学問が、思いもかけず自分をこんな遠くまで運んでくれた事に、改めてこの肉体は見えない何者かによって予想もしない場所に巧妙に、そして正確に

導かれているのだと言う実感を持った。

 

インドで言う所のグルと言う師もなく、セミナーに参加するでもなく、何も分からない状態でただ本を頼りに瞑想を通じて健康になりたい、意識の世界を体験したいと言う思いから、見よう見まねで私は座り始めた。瞑想の時が熟したのだった。

その時、40代だった。

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思考の現実化

 過ぎ行く時間は人の思いで時には早く、時には遅く感じる。

 独自で瞑想を日課とし出した私は、昔、香港で気功をした時、先生から初心者がすぐに気が巡る人は見たことがないと言われたように、その方面の素質があるのか、深い瞑想に入り、無になるのにもそう時間は掛からなかった。

 

私の毎日の瞑想の1〜2時間は、びっくりするほど速く過ぎた。

最初は健康効果を期待したが、一〜ニ年経っても特に期待する効果も見られず、心臓のたまの発作も依然続いていた。

唯一それでも続けられたのは、心の内が常に平和で穏やか、恐れなく、煩悩は消え去り、心地よい感覚が味わえたからにほかならない。

 

自然と言う物はなぜ常に慌てず騒がず、無理なく緩やかで、振り返ればいつの間にか、と言う感覚で立ち現れるのか。

無味無臭の水のように、入る容器によってその形を自在に変え、抵抗に遭えば、ゆるやかに避けて流れを変え、低きに流れながら着実に万物の命を育む。

主張せず、求めず、ひけらかさず、ただ沈黙の内に存在する。

 

毎日座るだけの地味な行為だが、そこから得られる平安さ、穏やかさは密やかにかつ着実に心に

深い根を張って行くのだった。

私はそれこそが慈悲、愛なのだと理解し、深く感謝した。

 

当初、瞑想は何も分からずともただ座って無になれば良いと思っていたが、体験するに連れてなんか違うぞと思い始め、意識に関した本も同時に読むべきだと気付いた。

良本を探して読みながら咀嚼し、続けて座った。自分なりの試行錯誤だった。

それら知識は当座の辛い登山時の杖の役割を果たした。

 

だが読書で知識だけ身に付けても、頭で理解しただけで実際の瞑想には役に立たない。泳ぎ方を本で習っても、実際には泳げないのと同じ道理だった。

座りながら身体で覚えるしかない。

 ある日、いつものように座っている時、突然気のような物が、腹の辺りから頭のてっぺんに行き、身体から抜け出るような感覚になって、怖くなり瞑想を止めた事がある。

今思うと多分幽体離脱らしかった。

 暫くは又こう言う現象が出る事を心配した私は色々な仏教関係者や高僧などに教えを乞いた。

ある高僧はこれは野狐禅(やこぜん)ではないかと言う。自分の思考から発した迷い、魔境であると。てっきり思考は意識と同義語だと思っていたがやっと思考と意識は別物であると身体で体験した事だった。

 

インドの哲学思想など読み進む内、意識はいわゆる、エネルギー、神、気、魂の核、周波数など呼び方は様々だが、そう言う類ではないかと自分で結論付けた。

 

人は思考する自分を自分だと思っているが、それは左脳の考える活動に過ぎず、本物の自分ではない。本当の自分は体内に宿る不変の気、意識、魂なのだ。インドではそれを真我と呼ぶ。 仏教ではこれを「霊主体従」とも呼んでいて霊が主役で体が侍従なのだ。

要するに、物質の体は見えない意識(神)によって動かされていると言う。

言葉を変えれば肉体に自由意志はなく、自力で動けない、ロボットのような躯体にしか過ぎない。熟睡時の心臓は誰が動かしているのか?排便、排尿を表層意識で我慢できる人はいるだろうか?

思考の迷いで魔境に入ると言うのは、言い換えれば思いは現実化すると言うことではないだろうか?

ならば、と自分で簡単な実験をして見た。静かな場所で、横になり何かに集中して考える事1分、その間、体を仔細に観察する。私の例で言えば、肩や腕などの筋肉が緊張して硬くなっている。次に何も考えず無になって、同様に体を1分観察すると前の筋肉硬直が一切見られず、全身柔らかでリラックスしているのだ。このように、思考は即、体に反応する事を発見した。緊張がないと筋肉は弛緩する。筋肉に包まれたあらゆる血管も一様に緩くなる。と言う事は、血流が良くなる。痛みが取れる。体調が良くなる。中国漢方の本に「痛いと通じず、通じると痛くない」と言う言葉がある。これは正しく血管の詰まりを論じている。

 

次に、体の痒み。痒いと思うと闇雲に掻いて患部は広がる。そこで、酷い病的な痒みは別として、少し痒い時は我慢して触らず、痒くないと脳に言い聞かせ、無視して考えない事約1分、これもいつの間にか自然に痒みは引いて行く。

 

第三に、腰痛がある。私は10年来、年に2〜3回はギックリ腰の発作を起こしていた。発作時は丸2日は寝たきりで動けないほどだった。ある時、アメリカの腰痛専門家のサーノ博士と言う人の本を寝ながら読んだ。彼は30年診療してきたプロである。要約すると、脊椎に病変がある人の腰痛の発症率はほんの少しで、(何%かは忘れた)殆どが脊椎とは無関係で大多数は脳内の古い記憶が作動して激痛を起こすと言う。

自分には腰痛があると日頃考えていなくても、無意識下でその記憶は脳内に刻まれているらしい。それが何かのきっかけで発症するのだ。

 

これは正しく思考の産物で、心の迷い、魔境そのものではないか。

そう納得してからと言う物、腰痛はたった2日で治り、それ以来発症していない。

 

これが思考が現実化すると言う証明だと私は理解した。

これは個人の体験の小さな一例に過ぎないがすべての現象には心が関与していて、時差を伴ってそれは現実化する。

 

では、心臓発作は思考ですぐに止まるかと問われれば流石にそれは無理だった。

相変わらずそれは起こる。

 

 今、瞑想を38年ほど続けて来た感想を言えば、無のエネルギーは空気でも水素でもない、確かに気としか呼びようがない実在する物である。空気は風が吹く事で空気だと分かる。一方、気は水素のようにも感じるが、軽くない、質量があり重い、風のように動かない、不動なのだ。強いて言えば、何もない空(くう)、真空のような感覚がある。そして、不思議なのは、その空、何もないはずなのに、深い瞑想中にその空(くう)の存在を確かに感じる事ができる事なのだった。

 

胸中央に胸腺と言う大人になるに連れて退化する小さな臓器がある。ある時期、そこに石のような質感の硬い部分があるのを発見した。触っても何もない。だが常時その硬さが気になるが何の快不快もない。あるインドのグルの本の中で、「その意識(神)は見えないから不在だと言うが実在する、人は静寂、沈黙の中にそれを確実に実感できる。場所は胸中央、大きさはスマホを横にしたぐらいで不動だ」と記述した箇所を読んだ時、まさにこれだと、はたと膝を叩いた。

 

私のそれはスマホほどの大きさはなく、もっと小さいが強力接着剤をそれ(スマホのように滑らかではなく若干凹凸感がある)に付けてピッタリ胸に貼り付けた感じで、微動だにしない。ただいつもそこにあるのだ。それから暫くしてその硬さは消えたが実在は依然感じられた。

後に思ったのだが、この不動感はもしかして人が死に近づいた時、揺らぎ始め、ゆっくり剥がれ、肉体から自然に離れて行くのではないだろうか?

 

 私はある時点から良本を読む事すらやめた。

意識の世界に物質界の知識は却って邪魔になる。思考や知性に頼るようになると直感が曇る。左脳を黙らせるのだ。

座って何かを悟るにはあらゆる観念は捨てねばならない。9年の面壁瞑想を行っただるま太師がいみじくも言ったように、まさしく「只管打座」(しかんだざ)、ただ座れと言う言葉の奥義をやっとほんの少し体感したように思った。瞑想を実践してはや7〜8年過ぎた頃であった。

 老子もこう教えている。「学問すると知識が増える、悟って行くと知識が減る」。

どうやら杖を捨てる時が来たようだった。

瞑想

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コンクリート

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全財産喪失

 時間はいきなり2012年4月に飛ぶ。

この年は忘れられない我々夫婦の全財産を10年来の知人に騙し取られ突然貧乏のどん底へ落された年となった。

この詐欺犯の名前を李小叶(リショウヨウ)と言う中国吉林省四平市の出身の当時58歳だった老女である。彼女と横浜で知り合い、仲良くなり10年が経ち、何の警戒心もなくなった時、事件は発生した。

 

2011年3月、東北大震災の後、関東も大きな揺れに襲われ、仙台や東北の津波に全国が恐れ慄いた年であった。全国の経済は直撃を受け、日本経済

ももうだめだと言う悲観的な考えが蔓延し連日それが報道されていた。

彼女はその経済悲観論を利用し私達夫婦に「資産移動」を盛んに勧めてきた。

私達にはある程度の不動産や資産があった。

 

一年後、所有していたアパートを売却した時、彼女はこの時とばかり、北京の私が持つ銀行口座へ資金移動した方が安全だと勧めて来た。

不動産を売却した現金をどうしようかと考えていた矢先でもあった。

最初は大金だから自分で自分の口座へ送金する計画でいた。

李はそれを知ると、即座に「貴方は中国の金融事情を知らない。今は外国からの送金は出来ない、送金すると拒否されて戻される」と言う。

我々も長らく中国との連絡もなく、当然向こうの事情にも疎かった。

 

彼女の言う事をそのまま信じた。

李は、でも大丈夫、自分がその資金を貴方の口座へ入金して上げると持ち掛けて来た。北京では審査が厳しいので、遠回りして自分の元々ある古い香港の口座へ送金すれば、自分がそれを動かして北京へ送金し貴方の口座へ入金できる。

と言うのだ。夫は少し警戒した風だった。それを察知したのか、すぐに銀行間送金だから証拠が残るでしょ?それに今まで私は貴方達を騙した事ないし心配いらないよ。と畳み掛けて来た。

 

送金については、赤坂にあるHSBCと言う上海汇豊銀行に事務員の知り合いがいるのでそこで口座を開設するのを手伝うとまで進言して来た。

私は横浜銀行に口座があるからそこから送金したいと言ったが、李はいや、日本の銀行は細かくてうるさいからイギリス系のこの銀行が良いと主張し続けた。数日、夫婦で相談した結果夫は彼女の言うがままに赤坂まで開設に行き、準備は整った。

 

愚かな事に私は彼女を信じ切って売却した資金5000万と他に現金3500万計8500万を彼女に託したのだった。銀行の送金は5000万だった。

私達夫婦と李の3人が横浜のHSBC支店へ行き送金したのだが、その際、李の表情が少し変わった。

突然「出来ればこの人に送金して欲しい」と言いながら知らない趙と言う名前の男性の名刺を差し出したのだ。「貴方の手助けをしたいのは山々だけど、万が一どこかへ引っ掛かって自分が巻き込まれたら困るから信用できるこの人を通した方が安全だ、お願いだからそうして欲しい」と言い出した。

私はさすがに見知らぬ人に送金は出来ないから送金はもうしないと断った。

 

李はすぐに「じゃ、仕方ない、巻き込まれたら嫌だけど私の口座でいいよ」と前言を撤回し計画通り李口座宛5000万の送金は成功した。

 

李はその数日後、入金手続きのため北京へ帰った。毎日、私達は電話連絡していた。手持ちで渡した3500万の現金は無事その日の内に私の口座へ入金したと電話で連絡してくれて安心していた。残り5000万は毎日気が気ではなかったが、2週間後、李からやっとの事北京口座へ入金完了の連絡が入って安堵した事だった。

 

李は1988年に来日して日本の永住権を持っているが、常に中国へ帰っていた。日本と日本人が大嫌いと公言し、中国へ帰るとホッとして安心するからと、向こうへ3ヶ月住み、日本には1〜2週間滞在の往来を繰り返していた。

 

その時もすぐに帰ると言う彼女の言葉を信じて私は首を長くして待った。

記帳するため、通帳も渡していたのでそれも確かめたかったのだ。

 

所が、この日を境に突然失踪した。電話も通じず連絡が途絶えて私は慌てた。

辛抱強く毎日電話した。1ヶ月ほど経ったある日、突然連絡は取れたが、李はこちらの用事が沢山あってすぐには帰れない、今田舎にいて不便だと言う。

通帳を見たいと何度も言ったが、心配しなくても良い、必ず持って帰って見せるからと言葉を濁すのだ。

 

では、通帳だけでも送って欲しいと頼んだら、途中で紛失したら大変だからもう少し待ってと言う。通知のコピーだけでもと頼むと、ここは田舎で郵便局もないと言を左右にした。

ここまで聞いた時、あれほど彼女を信じていた私に疑念が湧いた。まさか、一介の家庭主婦がこんな大胆な事する訳がないとそれでもその疑いを打ち消した。

 

時々電話が通じるようになり、半年後の年末ぐらいから私を騙したのか?と彼女を詰問し口喧嘩が始まった。彼女は最初は電話口で大泣きしながら、「子供二人には(娘と息子がいる)この事は言ってくれるな、母親が詐欺師と分かると日本での子供の将来は無くなるから」と私に懇願したが、その翌日はまた別人の如く、騙してない、そんな事する訳ないと前言を否定する支離滅裂な人間に変身するのだった。

 

その時から私は電話の度に録音するようになった。私はこれでは埒が開かないと思い、彼女に会いに北京へ行く手配をした。それを知った彼女は、新年を過ごすため実家の東北へ帰ると言っていて、元々あったメニエール病が再発したとも言い、電話口で真に迫った嘔吐する声が頻繁に聞こえた。あれが演技だとすると李は素晴らしい俳優に違いなかった。

 

中国は今一番寒く、貴方は心臓病持ちだから来ない方がいいと言ったり、果ては、実家にいる弟まで駆り出し、姉が帰省した時、心筋梗塞と脳梗塞を同時に発症して、医者には絶対安静にと言われているから暫く電話で彼女を刺激しないで欲しいと弟に言わせた。来年初めには必ず帰すからと言う。

私はその真偽を確かめようもなく仕方なく李の帰るのを待つしかなかった。

 

そして、私の催促に耐えられなくなったのか、騙し通せなくなって観念したのか、やっとの事翌年2013年3月6日に日本へ帰って来た。事件発生から約1年後だった。我々はその時、すでに沖縄へ移住していたので、彼女に会うべく、夫婦で上京し、大塚のホテルで面会した。

 

真っ先に、彼女は自分が今まで実家で心筋梗塞と脳梗塞で寝たきりだった事が本当だと言いたいのか、新宿病院での診察結果を手にヒラヒラさせながら、病気は嘘ではないと得意気に言い放ったが、私を騙せなかった。

それは単なる血液検査とX線検査結果でしかなかった。

李は詐欺師だから当然口先は職人芸だ。恐らくあらゆる自分に不利な状況を想定した上で面会に臨んだと思われるので私達も全過程を録音した。

 

色々な言い訳や口実を実にうまく喋る。とにかく、8500万を騙し取った件を認めさせなければいけない。李は口で逃げ続けた。騙したんじゃない、受け取っただけでまだ入金してないだけだと言う。

では、認めたのならサインしなさいとやっとサインさせたが、今度は全部は返せないと言い出した。

 

実は、そのずっと前に李に委託して北京のマンションを購入していて、彼女に管理して貰っていた。その物件を内装した費用や新たに購入した他の物件の費用など全て自分が立て替えたのでその費用を8500万から差し引けと言う。

それが何と日本円で3500万と言う。

 

私は昔から借金が大嫌いでバス代ですら人から借りた事がない。背の丈に合った買い物しかしないタイプなのだ。お金がないのに派手な内装したり、ローンで物件を買う訳がない。内装など頼んだ覚えはない、一体どこの内装会社に頼んだのか、詳細金額は幾らか?請求書は?内装期間は?など質問しても何も答えられない。請求書など当然ない。私が疑義を呈すると李はじゃ残金5000万は返さないと脅した。

 

我々はその時、騙されて収入もなく貧乏のどん底だったので返して貰わないと困る事を李はよく知っていた。せっかく無理して上京したので、一銭でも戻して欲しかった。

李は強気だった。今までは私に対して借りてきた猫のように従順で大人しく、大声で話す事もなく、常に温和な態度だった彼女は突然獰猛で強欲で狡猾な本性を現し始めた。

 

本当に帰ると立ち上がってドアへ歩いた時、夫が「人を騙して良心はないのか」と喧嘩になった。彼女はそれでも帰ろうとした。帰ったらもう捕まらない。その時、よほど警察へ通報しようと考えたが、当時の私は法律に無知だった。事を大きくしたらお金が戻らないと思ったのだ。穏便にすれば戻る可能性はある。

今の私ではあり得ない判断だが、李の立て替えたと言う費用を差し引いても良いから5000万だけは戻してくれと承諾した。心では、必ず北京へ行ってこの件を調査し、3500万は起訴してでも返させようと考えていた。

 

これが詐欺事件の始まりで、この後、事件はまさかの広がりを見せ、徐々に複雑化して行くとは予想もしていなかった。

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詐欺犯李小叶との馴れ初め

 時は12年前に遡り、2000年頃のある日、私達夫婦は天津大学での昔の教え子だった董黎民(トウレイメイ)さんと横浜で再会した。

彼も最近日本へ移住したのだと言う。その時、中国で結婚したと言う奥さんも連れて遊びに来たのだった。この奥さんの名を李小叶(リショウヨウ)と言った。中国吉林省四平市の出身で、日本語がほとんど話せなかった。彼女の遠慮深く、にこやかに話す態度が好印象だった。また、教え子の奥さんだと言う安心感もあった。5歳の息子と娘は後から連れて来たと言う。

 

 当時、私達はすでに中国を離れて20年以上も経っていたため、中国語を話す機会が滅多になかったのか、彼女に親しみすら感じ、楽しく中国語で話した。

 

その後、時たま彼女は一人で我が家を訪れるようになった。

知り合って三ヶ月経った頃、彼女はいつも通り我が家へ来て、浮かない顔で頼み事を言い出した。私に1000万貸して欲しいと言う。

東京で会社を立ち上げて資本金1000万がすぐに必要なのだ、必ず、1週間後に利子を付けて返すので安心してくれとも。

私は正直びっくりして声が出なかった。1000万は誰に取っても大金だ。

特に、経済は夫が管理していたので、我が家に一体どれ程の現金があるのか私には皆目分からない。私の一存で貸せるはずもなかった。

それを正直に言うと、彼女は、「そうなんだ、じゃ、北京の陳姉さんに頼むからいいわ」と言ったかと思うと、座卓の向かいに座った位置から即座に携帯を取り出して国際電話を掛け出した。しばらく喋った後、「大丈夫よ。姉さんから借りたから、心配しないで」と言った。

陳姉さんと言うのは、時々、聞いていた彼女の知人で、元いた北京の会社でとんでもない巨額の横領罪を犯して、北京警察から指名手配されていると言う曰く付きの人だった。そんなに簡単に電話で貸して貰えるのに、なぜ、わざわざ付き合いの浅い私に頼んだのか?

私は探りを入れた。「そんな大金をどうやって受け取るの?」

李は「大金とは言えないわ、こんな額ぐらいクレジットカードで引き出せるよ」と答えた。

当時、日本でこそカードで自由に引き出せたがさすが1000万はすぐには無理、と私は内心思った。が、私は中国とは縁遠くなっていたため、最近の国内事情は全く分からなかったので、日本と同じようにカード使用可能と思っていた。

後で考えると怪しいと思える事が多々があった。

1000万をまるで10万円感覚で捉えていた事。

日本へ来て間もなく日本語もあまり喋れない人が会社を設立?

当時はネット環境もあまりなく携帯で簡単に大金を借りられる?

当時の中国はまだまだ後進国で国際カードはなかったのでは?

携帯で話していた時、李は極力短く話していたし、数分で終わった。

相手の声が聞こえないのをいい事に一人芝居で私に聞かせたのでは?

なぜ、李は指名手配の知人を自慢そうに私に聞かせたのか?

もしかして、我が家の経済事情を知りたくてカマをかけ断られるのを承知で借金を言い出したのではないか?と疑問は次々と湧いて来た。

私に断られて以来彼女は家へ来てもキッパリと金銭の話を持ち出さなくなった。

彼女と世間話するくらいの付き合いはずっと続いた。

当時、彼女は東京高田馬場辺りに住んでいて、我が家に来るには電車で1時間半程かかる。時には中国で珍しいと言う特産品を持って来たり、話していて人の自尊心をくすぐるように良く褒め言葉を発して私の歓心を買っていた。

我が家は古い戸建てで姑達と同居するため、二階の台所だけは新築したが下の台所は昔の仕様で古いままだった。彼女はそれに目を留めて、なぜ、内装しないのかと何度も聞いた。まだ使えるからと答えると、新しい台所にする資金がないのか?と聞き返した。その時は気にも留めなかったが後で思い返すと我が家の財産がどれほどあるのかの下調べをしていたように思えた。

1年2年と時間は過ぎて行った。相変わらず彼女は時々遊びに来ていた。自分の事はあまり話したがらなかった。相手が嫌な事を敢えて聞こうとはしないのが私のポリシーだったので、彼女が遊びに来てと言わなかったため10年付き合ったのに一度も彼女の家を訪ねた事もない。

多分2005〜6年ぐらいだったと思うが、当時そこかしこで公然と偽ブランドが売られていた。プティックから道端、フリマなどどこでも手軽に買えた時代だった。

当時、夫の董さんは中国語非常勤講師をしていて月収23万で4人家族を養い、小さな家のローンも月4〜5万支払い非常に貧しかったらしい。彼女も家計のためフリマで偽ブランドを売っていたし、自宅が早稲田大学にも近かったため夜に大学の黒板消しのバイトもしていると語った事がある。

ある時からしきりに夫の董さんの悪口を言うようになった。家にお金を入れないとか、帰ると大きなポテトチップを片手にテレビを見るだけで何も手伝わないとか、非常勤講師をしている大崎の大学で73歳になる老女と不倫しているとか、自分のへそくり1500万円を隠れて株に突っ込み全額損したとか、とにかく同居に耐えられないと毎回愚痴るのだった。私もそれを聞いて、董さんはそう言う人だったのかと驚き、彼女に共鳴を示した事もある。

ある日、董さんの不倫を大学内で暴露したい、それにはチラシを作成して大学内に撒きたいので内容を書いて欲しいと頼まれたが、そう言う事はしない方が良いと私に諭されて諦めた事もあった。私の中で董さんの印象は彼女の悪口で一変した。

ある時、彼女は相談したいと言って来た。私から彼女に500万円貸したと言う証書を書いて欲しいと言う。何の意味か分からなかった。

彼女は滔々と説明した。実は、夫がいつもお金を入れてくれないので自分と子供達は食べるのもままならない。どうにか、彼からお金を無理やり入れさせるようにしたい、付いては老師(彼らは昔の先生と言う意味の中国語呼び名で私達を老師と呼んでいた)から自分が借金したと分かったら夫はメンツがあるから絶対月々返済するはずだ、その際、自分経由で返済させれば自分達の生活は良くなると言う。そのためには老師から借りたと言う借用書があれば彼を信じさせる事が出来る。

何と言う見事と言うか、考えた事もない複雑な思考回路を持っているのかと私は感嘆した。果たして彼女だけがこう言う思考方法を持つのか、中国人全体の意識がそうなのか、こう言う奇抜なアイデアがある事自体理解出来なかった。

中国の動乱続きの長い歴史の中でDNAに刻まれた自衛術なのだろうか。だが、私は書けないと断った。彼女は諦めず何度も通ってはお願いした。絶対老師には迷惑掛けないからとしつこかった。結局私は仕方なく貸してもいない500万の証書を書いて渡した。

握手

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冤罪を被る

 彼女との親密度は徐々に濃くなっていった。

 

 ある時、宝石を売らないかと話を持ち掛けられた。彼女の知り合いに品川で宝石店を経営する山田さんと言う人がいる。億万長者だと言うその人は、茨城県に住み、台湾人で帰化したので名前を山田に改名したらしい。その人から卸値で宝石を譲って貰えるらしかった。どこへ売るのかと聞いたら北京で売ると言う。私には向こうの事情が分からないので断った。

数日後、私をその宝石店を紹介すると言って嫌がる私を無理矢理連れて行った。確かに、小綺麗な店でその山田さんと会って挨拶を交わした。

彼女はその後、山田さんに譲って貰ったネックレスの数々を得意気に見せてくれ、数ヶ月後に、それら全部を北京で数倍の価格で売ったと聞かされた。

 

とにかく、彼女はお金の匂いが大好きな人で、いつも、自分は貧乏人とは付き合わない、金持ちだけが良いと言って憚らず、常人とは違う目線を持っていた。一緒に散歩していても、景色には目もくれず、各民家をじろじろ見ながら、日本と言う所は、簡単に侵入して強盗が出来るくらい壁の造りも薄く、垣根もないに等しい、全然危機意識がないと冗談のように話した事もある。

 

李はこの時、すでにいつの間にか我々の家庭に深く入り込んでいた。

「朱に交われば赤くなる」の諺通り、私は少しづつ赤く染まり始めた。

 

 ある日、私に住所を貸して欲しいと言う。実は、ずっと偽ブランド品を中国から仕入れている、付いては自宅はとても小さいから段ボールも沢山置けないので先にここへ送って貰いたい、直ぐに取りに来るからと約束した。

承諾してからは次々と段ボールは届き、その度に彼女は引き取りに来ていたが、時間が経つに連れ、段々引き取る時間が延びていき、家にある空室には段ボールが積まれるようになった。

 

私は2000年頃からパソコンを習い始めてから、自宅の不用品を処分するためヤフーオークションで服やバック、本などの不用品を細々と出品していた。

李は私に自分の偽ブランドを少し譲ってやるからヤフーに出したらどうかと提言した。私の欲が頭をもたげた。当時はまだ公にどこにでも売っていたし、法律制限もなかったので数点なら良いだろうと、自分の不用品の中に数点紛れ込ませて出品した。もちろん、偽物なので激安である。だが、さすがに心に疚しさがあったのかそれ以上は出品する勇気はなかった。

 

これに刺激されたのか、李は自分もフリマで売るのは面倒だからヤフーで売りたいと言い出した。だが、李は狡猾な頭脳は抜群だが、常識や言語を覚える頭脳は皆無だった。

パソコンなど触った事もない。パソコンで金儲けが出来ると分かると、俄然、興味が湧いたのか、それ以来、毎日手弁当でパソコン持参して私に教えを乞いに通った。何度教えても覚えられず私もイラついたが、李は常に低姿勢で学びたいと言う。日参は3ヶ月続いた。やっと出品の仕方を覚えた李はそれ以来、大胆にもズラーと偽ブランド一色で、常に20〜40点を一円スタートから出していたと言う。

 

 ある日、不要の通帳は無いかと聞いて来た。ヤフーの売り上げをそこに記載するらしい。李は自分の通帳を使うと税務署に目を付けられるから架空の通帳が良いと言った。私は、随分昔に友人と会社を設立すると言う計画があり、その際使う通帳を知人から預かっていたのを思い出した。どうせ古い通帳だから要らないと言う知人の了承を得て李に渡した。後で、李はヤフーで年1000万稼いだよと自慢話を聞かされ驚いた事だった。返された通帳は全ページ各数万と言う数字で埋め尽くされていた。

 

 あれは2007〜8年頃だったろうか。私は相変わらず数点のみたまに出品していたが、運の悪い事に、やっと3000円で売れた1枚のポロシャツ購入者から偽物と言う被害届が出されて、捜査対象になった。

我が家の下にある交番のお巡りさんが自宅へ来てこう言った。

「お宅は高額納税者だから、お金に困ってないでしょう。今回は遊び半分で売ったのでしょうから、今日はただ、これからは気を付けるようにと警告しに来ただけです」

 

だが、玄関から見える小部屋のドアが開いていたのをお巡りさんは見逃さなかった。そこには李がいつまでも引き取りに来ない段ボールが積み重なっていた。

「あれは何?」と聞かれ私は慌てた。「ちょっと見せて下さい」と言い、つかつかと上がってそれを開けて見た。

 

万事休すの私は何も言えず固まった。開けた事のない箱には手付かずの商品がぎっしり詰まっていた。さすがに、警察も放っては置けないと思ったのか、事は大きくなった。「これは何?どこから仕入れたの?いつから?」

矢継ぎ早の質問に私はドギマギしながら、「いや、自分のではない、人から預かった物で自分でも開けた事がない」とだけ答えた。「それは誰?」

私は内心、友達を裏切れない、と言う思いがあったので、苦し紛れに近くのフリマで知り合った中国人から暫く預かって欲しいと言われたのでここに置いている。

と李を庇った。が、信じてくれる筈もなかった。

 

段ボールは全部没収され、売った一枚のポロシャツが原因ではなく、大量の段ボールの中身の件で私は起訴された。確かに自分は偽ブランドを売った。だが、公然とどこでも売られていたので当時の私には特別な罪悪感はなかった。本物と偽って売った訳でもなかったからだ。まさか、大ごとにはならないだろうと私はどこかで高を括っていた。だが、後で知ったのだが、この年、偽ブランド取り締まりが強化されたと言う。

 

警察の尋問にも私は李の名前を明かさなかった。そのせいで、自宅を捜索された際、販売された送金記録のある知人の通帳が実はその中の1件も売っていない私の販売証拠として計上された。思えば、李は万が一自分が罪に問われるのを避けるために事前に私から架空の通帳を借りたのだ。単に1枚のポロシャツで起訴はなかったに違いなかった。段ボールや通帳がなければこんな大事には至らなかった筈である。

 

ひとえに自分の愚かさのせいとは言え、彼女に狡猾に嵌められたとんでもない完璧な冤罪だった。たとえ掛け替えのない親友で、裏切りたくないとしてもなぜ自分が犯してもいない別の罪を背負う必要があったのか、なぜ名前を明かさなかったのか、なぜ庇ったのか。自分の取り返しのつかないあまりの愚かな行為に何度も悔やみ、何年も自分を責めた続けた。

 

私が留置所に拘留されていた間、李は自分に嫌疑が及ぶのを恐れて自宅のパソコンと大量の商品を近くの川へ流し証拠隠滅した後、直ぐに北京へ高跳びしたと言う。

 

私が保釈されたと聞き知ってから李は再度帰って姿を現した。

自分の名前を言わずに庇ってくれた事に一応の感謝はしたが、直ぐにこう言い放った。

「日本人は義を重んじるから簡単に騙しやすい」

彼女は暗に私の思考回路もそうだと言っていた。

 

 実は、彼女は私に隠れて複数の日本人にも偽ブランドを卸していたと言う。

佐賀県のあるお婆さんや東京杉並区にあるバーの店主にも毎週卸していた。

店主夫婦は東京大学卒のインテリで、男の名前をヒロミと言う。

私と同時期に彼らも逮捕されたらしい。

 

逮捕を知らない李はいつものように夜、大量の重い商品を担いでバーの近くまで卸しに行った時、いつも付いてる筈の電気が消えて真っ暗だった、

警察に敏感な彼女は危険を察知し、店まで行かず途中で踵を返して逃げ帰った。

後で、このヒロミも終始卸し主である李の名前を明かさず庇ったらしい。

だから、日本人は騙しやすいと言う冒頭の言葉が出たのも無理はなかった。

皆が庇ったお陰で李は逃げ延びられたのだから。

 

彼女は常識や知識こそ皆無だったが、人の心理を見抜き、洗脳し、一流の話術で自分を信じ込ませ、相手を自己のテリトリーへ引き込むのには長けていたのだ。

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狡猾無比の詐欺手口

 洗脳され切った私は愚かにもそれでも李に利用されたとは思わなかった。

自宅へ商品を送らせるのを承諾したのは自分なのだから、自分が悪いのだ。

彼女のせいではない。たまたま、自分が売ったポロシャツが原因で段ボールが発見されただけなのだ。

目覚めなかった私は李との交友を継続した。

 

 2009年頃から李に勧められ、向こうで貿易をしている夫の小遣いが必要だったので少しづつ現金を李に持って行って貰っていた。最初は試しに10万円ほどを頼んで自分の口座へ入れていた。自分の通帳を渡し、向こうで記載して持ち帰り私がその通帳を確かめていた。いつもきっちり人民元に交換して入金されていた。

 

私は気を良くして、30万、50万、100万と段々託す金額も次第に多くなった。

その都度、何十年も習慣にしている日記に記載していた。

 

 その内、中国でマンションを買ったらどうか?と勧められた。自分でもそれを考えていたので、物件探しを始めた。李は自分が向こうで不動産屋を探すので安心してくれと言う。

直ぐに物件は見つかり、購入段階になると、当局では私は外国籍とみなされ、不動産購入は不可らしい。李は自分の名義で先に買って、直ぐに名義変更すれば良いと言う。調べると確かにそうできるらしかった。

その前に、駐日本中国大使館へ二人で行き、委託書の公証書を作成した。

2009年12月、その物件を購入したから検分に来いと李は言う。

翌2000年3月に検分に行った。韓国人から購入したと言う。2階に位置するボロいマンションだったが内装すれば住めそうだった。その夜、同じマンションの12階の彼女所持するマンションで泊まり、翌日北京を離れた。

 

5月になり、私が上野公園で孫を遊ばせていた時、突然、李から電話が入った。

泣きながら、あのマンションを買った韓国人に起訴されたと言う。

何事かと思ったら、物件購入時、法務省で売買手続き中、国に支払う税金約10万元の現金を忘れたと言う。その時、その韓国人が心優しく先に李に立て替えたらしい。その金を後日催促しても、李は常に日本と中国を往来しているため、捕まらず、逃げていると判断されて起訴されたらしい。

 

その10万元の税金は私が先に李に渡していたので事情は知っていた。

なぜ、私が出した税金を払わないのか?日本で会うと私はいつも督促していたのだ。その度に李は中国の事はあなたには分からない、大丈夫、自分に任せてと常に話を逸らせていたのだ。(後で判明したのだが、この10万元の税金さえ嘘で、

税務署の証拠から本当は数千元でしかなかった)

 

なんと言う事、それが今、その販売主に起訴されたと言う。

直ぐに税金支払いなさいと私は言ったが、相手は自分をもう信用できないから取引は廃止してマンションを戻せと要求している。当時、150万元で購入したその物件は今、急騰して倍の300万になっている。と言う事は私は相当損する事になる。

それはあなたの責任だからどうにかしなさいと言ったが、どうしようもないと泣き叫ぶのだった。喧騒の公園内でこんな込み入った話など出来ないから後でまた連絡くれと言ったが、李は自分は今裁判所にいて直ぐに返事しないといけないと私の決断を仰ぐばかりだった。

 

私もどう判断して良いかわからなかった。とにかく、早く日本へ帰って事情を話してくれと言うしかない。

その1週間後、彼女は現れた。目は泣き腫らし、げっそりと痩せ、声は話し過ぎてがらがらになり、行き倒れのような姿で家に来た。

(後で思い返すと、彼女の腫らした目や喉の枯れは決して嘘ではなかった。一夜にしてそうなるものではない。李は一体どうやってその状態を演出したのだろう?)

 

細かい事情を泣きながら声を枯らしながら説明し、同時に私の通帳を見せ、ほら、ここに相手からの150万の返金があるでしょと言いながら謝り私に許しを乞うた。確かにそこには150の数字があった。私はその欄にマンション返金と書いた。許せなかったが、彼女を責めても物件が戻る訳でもない。どうしようもなかった。結局、その件はその後有耶無耶になった。(だが、後になって、その記帳さえも過去の銀行記録には一切なかったのだ。李は二重に私を騙したのだ。私は銀行通帳の記帳の打刻を下の楊玉法と言う人物と共犯で偽造したと強く疑っている。)

 

2011年10月5日。李は知人の楊玉法と言う銀行の経理の奥さんが日本へ観光に来ると言う。楊さんの話はよく話題になっていた。我が家からも、たまに彼に電話していた。彼からは、外貨交換の際、手数料免除の恩恵を受けていたらしい。

 

その奥さんが東京へ到着し、これから福岡に観光に行くと言う。付いては、お土産を買うお金が足りないので自分を通して1000万貸して欲しいと切り出した。

お土産買うのに1000万も使うのか?と聞いたら、彼らはエリートでメンツがあるから安い土産は買わない、この間もロレックスを買っていたと言う。

そんな現金はないと一旦断ったが、夫に相談してくれと頼まれた。

楊さんは銀行経理だから、奥さんに大金を貸せば、1週間後奥さんが帰国した時点で人民元に交換して直ぐ私の口座に振り込むから、自分が危ない思いをして税関通るよりもずっと安全ではないかと言うのだ。

 

前にも少しづつ現金を持って行って貰っていたので、夫は貸すのを承諾した。

その後、李はその奥さんは日本語ができないので自分も奥さんに同行して福岡へ行くと言う。その3日後、李はまた戻って来て、首に掛けたカルチェのネックレスを私に見せながら、これは中古だけど福岡の大黒屋で奥さんがお礼としてプレゼントしてくれたと言う。その後、無事奥さんは帰国し、1000万は私の北京口座へ無事返金されたと言うので安心していた。
(その時は信じていたが、後で考えるとなんと言う芸の細かい詐欺だろうかと感嘆してしまった。実は当時この夫人は観光になど来ていないと李本人が話したのが後の録音に記録されている、全部嘘話だったのだ)

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ビル前での雑談

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李の見事な逃亡劇

 話は冒頭の8500万円現金詐欺事件に戻る。

大塚ホテルで会って正式に話し合いが始まった。まず、8500万円の確認と所在を聞く。私は記憶だけに頼ると間違うかもしれないため、日記帳を持って行き、日記の日付通りに、いつごろ、誰に、どこで、幾らを何回に分けて渡したか、を混乱しないようにゆっくり説明していった。最初は極力否定していたが、後になって楊夫人が福岡まであなたと行き、大黒屋でブランドを購入し、プレゼントまで貰い、私に見せてくれた事、楊さんも関与している事を言うと、彼女は急に狼狽し、陽さんのことは持ち出すな、彼は何の関係もない、今はもう縁は切れていて連絡していない。無実の人を巻き込みたくない等と大声で言い、そこで楊の事を二度と話さないと言う条件でお金を入金していない事の全てを認めた。

彼女の狼狽ぶりから私はやはり李は通帳偽造で彼と共犯だと直感した。万が一、楊が捕まると自分も刑事事件で危険だと思って認めたのだ。だからこそ、私の通帳も返さないのだ。

結局今どこにお金があるのかも言わなければ、私の通帳も持って来ていない。謎はもっと解けない。なぜ人の通帳にこだわって、押さえるのかと聞いたら、

 

「あなたがこの通帳で誤魔化す恐れがあるから上げられない」

と云うので、夫が「おかしなことを言う人だな、自分の通帳で何を誤魔化すの?

百歩譲って私達が誤魔化す恐れがあるのなら、先にそのページを好きなだけコピーを取ったらいい。よければ、通帳の口座番号、表紙何でもコピーを取っていいよ。」と言ったが頑として渡そうとせず、持って来てないの1点ばりだった。今、2025年9月の時点でも返却されていない。

 

そこで、やっと2013年4月15日まで3500万円の立て替えを差し引いた5000万円返金すると言うサインをさせたが李はその日からまた失踪し、家を訪ねても表札まで取り外して逃げていた。

2013年6月

李が失踪したのでとりあえず北京へ行き証拠探しをしようと渡航した。李はほとんど証拠を残していなかったのだ。

着いた直後突然李へ電話が繋がって私が北京へ来たことを聞いて驚いたようだった。会いたいと言ったら直ぐに「なぜ、来る前に連絡しなかったのだ、私はつい1週間前にアメリカへ来ている、帰りのチケットは半年後に設定しているから会うのは無理」と言う。なぜ、突然知らないアメリカへ?「北京は暑いから避暑に来てる」と言う返事だった。息子がアメリカで仕事をしていると言う。仕方なく、見知らぬ土地で弁護士探しや裁判所、警察、銀行など毎日脚を棒にして証拠を探そうと2週間歩き回った。結果、私の通帳の記録には何の入金もなく残高はほとんどゼロに近かった。昔から少しづつ預けて入金した金額さえ何も記録はなかった。8500万円どころか、あの通帳にいちいち記載された数字は全て偽造だったのだ。銀行の経理が偽造は刑事事件になるから被害届を出しなさいとアドバイスしてくれた。

(あとで出入国記録を見たがやはりアメリカ話は嘘で李は北京にいた)

2012年8月

再度渡航する。自分が買ったが李の不始末で返還したと言う例の2階のマンションを訪ねた。そのマンションには見知らぬ人が住んでいて事情を聞くべく管理人を尋ねた所、資料を出して来て

「このマンションは7月に第三者へ370万元で売却された、売り主は李小叶」と聞き、腰が抜けるほど驚いた。売り主は韓国人では?と何度聞いても違うと言う。頭が混乱した。すぐに、警察へ大使館の委託書を持って通報した。警察は何かの誤解ではないかとまともに取り合おうとしなかったが、とりあえず彼女に連絡しようと刑事さんが直々に連絡した。李は電話で「こちらは北京の◎◎警察だが、、」と言う声を聴いただけで慌てて電話を切った。15分後再度警察が電話したら、今度は明るい声で滔々と話し始めた。

恐らくこの15分で何を言おうかと心の準備をしていたのであろう。警察では手ぶら電話で録音も取られていたので私は一部始終を聞いていた。さすがの警察もタジタジな立て板に水の話術で刑事さんに話す隙を一切与えず自分の一人芝居の如く、林さんとは長年の付き合いでとても仲が良く老後は一緒に過ごそうと言う話までしていてとても楽しみだとか言う。今どこにいるのですか?と問うと「日本にいる」住所は?と聞くと委託書に書いてある高田馬場の住所を答えた。

警察;北京に一度来て出頭してほしいと言うと「今、小さい孫の世話が大変で行けないけど、帰国したら必ず自分から出向きます」と答える。最後まで李の独壇場だったが、切る前に刑事さんから一言;「林さんが委託した〇〇のマンションはまだ貴女名義で手元にありますか?」と聞かれて、突然李は一瞬固まって3秒ほどしてやっと「はい、手元にあります」と答えた。私にはアメリカにいると言い、刑事さんには日本にいると言う。2人の子供はまだ結婚もしていない。どこから急に孫ができたのか?嘘だらけで唖然とする以外ない。

 

帰日してからは李の電話が通じ始めた。アメリカにいると言う李の言を信じたふりをしながらアメリカ事情をカマかけて問うも、実に整合性のある答えをすぐに答えるので本当にアメリカにいるのかと少し信じてしまった。半年後と言うとクリスマスになるけどその時は必ず沖縄に行ってこの件を通帳返還も含めて解決したいと言う。

仕方なく12月まで待ち、やっと時が来たと思い電話したら、今度はスーパーで事故に遭い脚をくじいてしまい動けず近くのクリニックへ治療に行ってる。「この状態だと飛行機には乗れないからまた延びるよ」と言う。アメリカは本当にいい所で人道的でスーパーの店長がすべて医療費を出してくれているとか聞きもしない事を長々と喋った。それからは頻繁に電話して状態を聞いたがすべてそつなく矛盾なく答えたので又しても本当なのか?と信じてしまいそうになったほど微に入り細に入り話術が巧みだった。それから2月になっても、今度はずっと寝ていた為脚の筋力が衰えて歩くとふらつくのでもう少し延びると言う。明らかに警察へ被害届を出させないための引き伸ばし作戦だった。

 

2013年9月

こうして李に振り回され続けた私はようやく横浜磯子警察署の鳥谷さんと言う刑事さんと連絡を取り告訴したい旨告げて証拠書類など送付したが受理してもらえなかった。この事件はお金が中国に渡っているから日本では捜査が出来ない、中国で告訴したほうが早いよ、と勧められた。法律に無知だったせいもあり、仕方なく中国へ渡り現地警察へ日参し、弁護士を探し裁判起訴を起こした。この時点ですでに1軒家を無断で売却されている。

あと残りの3軒も危ないと思った私は8500万現金の話は暫時後回しせざるを得なかった。ある日、電話で北京のマンションの鍵まだ貰ってないから欲しいとお願いしたところ、李は「何の話?全然知らないけど?」としらを切った時、咄嗟に私はあとのマンションも李は売却するつもりだと察知した。すぐにマンション取り戻しの起訴を提出し、1回目の裁判が始まった。この日を境に裁判出席のため年に3~4回の渡航を繰り返した。裁判が始まっても李はすべて弁護士任せで1度も出廷したことはなかった。

ただ、驚いたのは李は1回目の開廷時、まず私の2009年に偽ブランドを販売したかどで逮捕された時の小さな囲み記事を事前に中国語に翻訳したものを弁護士を介して裁判官へ提出したことだった。自分ですら見たことのない記事だった。4~5年も前の小さな記事を保管していたという事はすでに前々から詐欺告訴された時のために保管していたと思われ、改めて早くから計画された詐欺だと確信を持った。開口一番、私が前科者であると言う印象を悪くして裁判に勝とうとしたのだろう。私は驚きながら日記を片手に、その時の詳細を裁判官に正直に訴えた。この事件の真犯人は李である事、ブランドの数々はすべて李が私の住所を使って中国から送り付けていたこと、私は李に上手い事利用され、罠に嵌った私はそれでも李を信じて刑事さんに彼女の名前を明かさずー友達を裏切りたくなかったー結果起訴された。言わば、彼女の身代わりに逮捕されたことを縷々陳述した。それ以来、李は藪蛇になると思ったのだろう。2度目の裁判以降からは二度とそれを出すことはなかった。

2014年再度横浜警察署へ受理のお願いをした。その時は担当が変わっていて高橋さんと言う刑事さんだったが一言、出来ません。と言う冷たい返事しか貰えなかった。こうなったら、自分一人で追求するしかないと腹を括って13年間一日も追及の手を止める事はなかった。李の情報を常に集め、しょっちゅう所在の定まらない彼女を追うのは大変だったが、東京にいると分かると飛んで行って家の近くで張り込みを深夜までしたりした。探偵に依頼するお金もないので自分で張り込む。ある日、それが用心深い李に察知され夜逃げされたこともあった。それでもしつこく追求した。北京にいると分かるとお金を借りてまで北京へ飛び北京警察と連動して追いかけた。

3年の警察通いで2015年とうとう北京警察はこの事件を受理してくれた。刑事さんは私を信じて、同情してくれたのだろう、感慨深いものが込み上げ私は泣いた。これでもう個人で苦労して追いかけなくても済むと思ったがそうはならなかった。李が中国にいない事で刑事さんと協力して李を逮捕するべく相変わらず李の追求は延々と続き終わらなかった。

そういう時、一回目の裁判が暗礁に乗り上げた。突然理由もなく裁判停止になってしまった。事情を若い女の裁判官と直接話したが答えがあいまいであった。態度も不自然でおかしいと思い、調べたが分からずその決定を飲むしかなかった。だが、私はすぐに2008年に2回目の裁判起訴を起こした。

同時にこの女の裁判官を高裁へ不当であると訴えた。あとで分かったのだが李は負けると思ってこの裁判官に賄賂を掴ませ裁判を停止させたのだった。

2018年

2度目の裁判が始まる。李は嘘の証拠を出したり、私こそ詐欺犯だと誹謗中傷したりしたが私は寝る間も惜しみ全力で証拠を集めて録音と共に提出した。同時に、私のマンションの内装をしたと言い、3500万円騙し取った事の調査も行われ、結果、一度も内装はしていないし、どんな立て替えもしていない事も判明した。

2019年4月11日

3回目の開廷。その時、警察は李本人が出廷すると言う情報を掴み、朝から3名の私服刑事を連れて裁判所の門口で彼女を捕まえるべく陣取っていた。そこで刑事さんと私は顔が合い2言3言話した。運が悪い事に私の背後には李の共犯者である弟が立っていて我々の話を聞かれてしまった。弟は即、屋内にいる姉の李へ通報したようだった。裁判が終了した途端、李は裁判官へ私が暴力団を雇って下で自分を殴ろうとしていると告げ口をし、そそくさと急いで1階のホールへ走って逃げた。私もそのあとを追った。出口は1か所しかない、外には刑事が待ち構えている。絶対逃げられないと確信していた。

所が、後で分かった事だが、どこまでも悪運の強い李は正門から出ず、1階の身障者用の大き目のトイレに隠れてほとぼりがさめるのを待った。警察たちと私は出口をずっと見張っていたが裁判も終わり誰もいなくなっても出てくる気配がない。警察は逃げられたと地団太踏んで悔しがった。用心深く、日本でも常に警察の目を警戒ししていた李の逃走劇はさすがに指名手配されている友人の陳さんの薫陶を受けただけはある。その後、警察の調べで李はその1週間後の4月19日に危険な北京飛行場を避けて、わざわざ列車で上海まで遠回りし、そこから一路日本へ逃げたと判明した。それ以来、中国警察に手が回ったと察知した李は今日まで永住権があるのをいい事に日本へ留まり中国へは入国していない。入国したら捕まると彼女は警戒しているのだ。

この裁判は、コロナを間に挟んだため一時停止されたりして4年掛かりで晴れて2021年8月私の一審完全勝訴の判決が下りた。だが、1軒のみの勝訴で後の3軒はすでに売却されていた後だった。李はその判決が下りても賠償金など払わず無視し続けて日本へ住み今に至る。約10年の時間を掛けて計画を企て、友達を装い、近づき、私達夫婦の財産を身ぐるみ騙し取り、他人の人生を完膚なきまでに粉砕し苦しめた李の罪は大きい。例え、人間の定めた法に引っ掛からずとも天罰は必ず下ると強く信じている。

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​どこまでも追い続ける

 中国での裁判で長い時間を費やしたが、その間、日本でも私は李を追求する手を緩めなかった。彼女は常に住所を転々としていたし、携帯電話も半年ごとに変えていたが、その度に調べ上げた。

 

 思い返せば、2013年、李の詐欺が発覚した当時、真っ先に連絡したのが彼女の夫 董黎民(トウレイメイ)だった。私達の教え子である。事情を説明すると彼は開口一番、先生まで騙したのか?と言った。実は、彼は結婚した直後からすでに李が常に嘘をつき、人を騙し、悪い事をしていたので、ずっと我慢して李に心を入れ替えて真面目になるよう説得を続けていたが入れ替えるどころかもっと酷くなっていくので最後はとうとう我慢ならず離婚を決意したと言う。

 

因みに、私の前にも2人の日本人の巨額の財産を騙し北京へ高跳びしていたと教えてくれた。また、彼の不倫や悪口は全部李の嘘八百、あの人は嘘しか言わないと怒って「先生、彼女は騙したお金は絶対吐き出さないから早く警察へ通報し逮捕しないと行けない、刑務所に入らない限り彼女の悪事は止められないよ」と言った。二人の日本人と言うのは恐らく、あの宝石商の山田さんに違いなかった。李は純粋な日本人とは言葉が通じないから付き合えない、詐欺師は言葉巧みでなければ成立しないからだ。

 

それに、時々、山田さんは台湾人だけど、人民元を北京に置いておきたいからと、やはり大金を彼女に託していた事を彼女から聞いた事がある。

きっと私と同じ手口で騙し取ったと思われ、一時は追求していたが、常にあっちこっちへ跳ぶ李に対しし、立件も出来ず、最後は泣き寝入りした物と思われる。また、北京警察の情報によると、李は2021年にも実家の東北四平市の知人を騙し、家を売り払われて全額60万元(日本円で1800万円)を持ち逃げされたと被害届が提出され、只今立件中だ。李はこのように、至る所で詐欺事件を起こして逃亡に逃亡を重ねている。

 

李は最後には旦那名義のマンションまでも騙し取り、最後には彼を追い出してしまう程の良心の欠けらもない極悪人であった。

旦那から騙し取った小さなマンションを3900万円で売却して新宿百人町の三井のタワマンを一括購入して息子と娘を連れて移り住んだのが2021年であった。名義は最初は自分名義、程なくして息子名義に変更している。その1年後今度は同じタワーで別のマンションをもう一軒娘名義で購入している。

 

 私は何度もそこを張り込んで警察を連れて訪問もした。李は目の前にいた。だが、息子と娘に庇われて、息子の背後に立って隠れていた。震える両足だけが見える。だが、息子は母親は居ないと明らかな嘘を吐き、私を小馬鹿にした口調で、「お巡りさん、この人頭おかしいんじゃない?証拠もないのに変な事ばかり言ってるよ」

あんた、証拠あるの?ここへ来ないで弁護士通してくれる?などと傲然と言い放つ、全く李と同じ匂いのする詐欺息子だった。蛙の子は蛙とはよく言った物だ。

極悪詐欺師が育てた子供にまともな子が育つ訳もなかった。李は最後まで声も出せず、震えながら息子の背後に隠れたままだった。

 

それならお望み通り弁護士通してやるし、ついでに警察に被害届も、も一回出そうと決心した。

直ぐに横浜の弁護士にお願いし、告訴状を作成して、弁護士と一緒に再再度横浜警察へ立件お願いへ行った。だが、警察は相も変わらず受理を拒んだ。李が一筆、「確かに自分は彼女を騙しました。と言う文言があれば受理するよ」と横柄な態度で言った。

「そんな物があったら警察には来ませんよ、直接検察へ行けば済みます。」

私もつい売り言葉に買い言葉で怒り心頭だった。何回行っても受理もしないし、態度も最悪な刑事さんは最後に「告訴状置いて行っても良いけど結局棚の上に置かれて、最後はシュレッダー行きだけどね」の言葉に私は切れた。

 

翌日、神奈川県警を訪れ、この刑事さんを告訴した。なぜ、受理しないのか、どうして市民に対してこんな酷い対応をするのか?と。

結果、県警から叱責されたのか、横浜警察は被害届だけは受けますと妥協した。だが、それも口先の約束だけで、告訴状は棚へ置かれ、調査すると言いながら、8ヶ月もの時間私を待たせて、最後は一応、李を任意出頭させるが立件は難しいけど良いですか?と言う。

李は前に日本警察や刑務所など怖くない、日本は甘いからね、と舐め切った事を言っていた事を思い出した私は、出頭など李に取っては平気な筈である。何の効果もない筈だと思った。だが、それでもないよりはマシだったので仕方なく承諾した。

 

李が任意出頭した日、刑事さんからも私に電話があった。半日ほど口頭取り調べをしたが、この案件は経済案件なので、これからは民事で争いなさいと言う。

付いては、李との顔合わせを警察で設定して上げるから、その後はもう介入しないと言われた。直ぐに電話は李に替わって、弁護士を探すので2週間の時間をくれと言われた。これは李のいつもの手口で、きっとまた逃げられると踏んだ私は2週間も猶予は上げられない、弁護士事務所で話し合いするだけだから弁護士は不要だと告げたが、李は口実を言い続けた。

 

そして、案の定、李は指定された弁護士事務所にも現れず、弁護士の電話も拒否し、電話の電源まで切り、またしても連絡が取れなくなった。

 

逃げる李を追い込もうと私は2022年6月、百人町のタワマンを張り込んで李が出てくるのを待った。

 

待っている時、この豪華なタワマンを見上げながら往時を思い出していた。調べでは李は2015年末、北京での裁判の最中、万が一負けた場合を想定したのか、強制執行されるのを恐れて自分名義で預金していた全額を北京の銀行から実家の東北へ移動し息子名義に移し変えていた。(実に用意周到、北京警察が李は必ず別件があるはずで手慣れた常習犯だと言っていた通りだった)今、その金を日本へ不法に持ち込んで、この2軒ものタワマンを買ったのだろうか?つい数年前まで23万で四人家族で過ごしていた無収入で極貧の彼女が一括6000万もする物件を2軒も買えるはずもなかった。

 

運良くその時、李は娘を連れて買い物に出て来たので、捕まえて路上で話し合った。李は本性が凶暴なので所構わず、大声で怒鳴り、手に持っていた傘を私に向けて突きそうな勢いである。きっと急に私が現れたため、驚いたのだろう。それでも、嘘付きの天才は即興で嘘を言い始めた。

 

「あら、貴女だったの?私はちょうどこれから北京へ行こうとしてた所だ」

「何のために?」と聞くと、ここぞとばかり「貴女の証拠書類は私がいっぱい持ってるからそれを持って貴女を告訴しに行くのだ、貴女も私を告訴してるでしょ?」

と早口で捲し立てる。「じゃなぜ直ぐに行かないの?」「今はまだコロナだから収まるまで待つの」「数年前に北京警察が何度もあなたに電話掛けたのに、あなたは受信拒否してるよね?なぜ、あの時告訴しなかったの?」

都合が悪くなると李は必ず話題を巧みに変える。直ぐに、それより、日本の刑事さんに貴女は嘘を吐いたよね?人を罠に掛けるな!私が本当に詐欺だったら、絶対にバチが当たって、車に跳ねられて死ぬ、とか、段々テンションが上がり出し、声も最大になる。道行く人たちが足を止めて聞いても恥も外聞もない。典型的な田舎の底辺中国人丸出しだった。

 

横にいた娘がしきりに仲裁するが李は聞く耳持たない。娘は私に何か証拠があるのかと聞くので、手にしていた北京での判決書を見せた。

李の声は更に大きなくなり、この判決書は嘘だ!裁判官に賄賂を上げて勝ったんだ、卑怯者だ!と娘に向かって言う。

 

1回目の裁判で自分が裁判官に賄賂を差し出し、裁判を停止させた事が李の経験になっている。他人もきっと同じ事するだろうと思い込んでるのだろう。

そんなら北京へ行って私を告訴すれば良いだけだと返したが、それは路上で話すと言うよりは、口喧嘩に発展し何の解決にもならない。

娘の仲裁で交番へ行こうと言う事になったが、李は頑として行かないの一点張りだった。李の一番怖いのが警察なのだ、行く訳がない、それでも、私が彼女の行く手を阻んだため、李も動けずやむ無く約40分後に娘から説得されて私達は一緒に交番へ行った。

 

刑事立件されていないので末端の交番での対応は知れていた。片方づつから話を聞くだけで、あとは弁護士を通じて話し合いなさいと言うだけである。李はそこでは、突然借りて来た猫のように大人しくなり、一言も喋らず全ての会話は娘に対応させていた。弁護士など屁とも思っていない李はその後も逃げ続けている。

 

その3ヶ月後、李はそのタワマン2軒とも売却して渋谷へ引っ越していた。

私に知られて怖くなり、狼狽売りしたのに違いなかった。そして、渋谷から一年後に李はまた新宿に舞い戻り若葉にある高級マンションを購入して引っ越した。今はあの傲慢な息子夫婦と2〜3歳女児の孫と四人でそこに同居して3年になる。

 

これだけ事件が長引き、逃げていればいずれかはあの山田さんのように、最後は諦めてしまうだろうと李は考えているはずだった。だからこそ、その同じ天才的手口で複数の人を騙しても成功して来たのだ。

洞窟でのハイキング

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​東京都新宿区若葉1丁目21-4 パークハウス四ツ谷206号

 思い返せば2012年8500万円現金詐欺事件の発覚から追及した結果、事件は予想外に物件を無断売却され、横領され私の被害は急速に拡大していった。

 

 13年と言う長い時間を孤軍奮闘し少しづつ証拠を収集し、裁判まで漕ぎ着けてやっと勝訴に費やしたエネルギーは膨大であった。勝訴直後、立て続けに2件再起訴し、全部で3件は完全勝訴して判決書は出ている。(実はまだ起訴を控えている案件が他に7件もある。)だが、李はその3件の司法判決書さえも無視し続けている。頻繁に帰国していた祖国中国には今はもう帰りたくとも帰れず、一番嫌いな日本のこのマンションに身を隠しているしかない。

彼女は私にまたしても住所を知られた事で、多分再度引っ越しを試みるだろう。

 

だが、李はもうどこにも逃げられない。辺鄙な田舎でさえも私は追って行く。

 

 今年、2025年8月、私は証拠を全部携えて駐日中国大使館の要人と北京の弁護士会の要職に就いている知人を伴い、更に新宿警察にも同行してもらって李達の住む東京都新宿区若葉1丁目21-4 パークハウス四ツ谷206号を訪ねた。

セキュリティー万全な高級マンションである。

だが、辺鄙な場所で、スーパーなども近くにない、不便な所だが、容易に他人が入れないセキュリティー仕様を優先して選んだのはひとえに私や他の被害者の手から逃れるためだと思われた。

 

インターホンを鳴らしても出ない、仕方なく、宅急便のお兄さんに続いて玄関を入るしかなかった。206号は直ぐに見つかった。ちょうど良く、息子が娘であろう小さな女の子を連れて遊んでいたので話し掛けた。この2〜3年の間に息子は結婚していたのだ。彼はもちろん私を覚えていた。

 

 息子は相変わらず傲慢さを全身で現し事件を否定し続け、あんたはストーカーか?と侮辱し、自分とは関係ないので直接母親に言ってくれと言う。その母親がこの206号にいるのだから出してくれと返すと、知らないと言ったり、母は貴方と会いたくないと言ったりした。すでに彼女がここに住んでいる事は調べ済みであるにもかかわらず、彼は知らないの一点張りを通した。大使館員や弁護士も彼と話したが、ここは日本で自分は日本人だから、中国の法律はここでは通じない、何なら日本の弁護士を通せと又しても先回と同じ答えを傲然と言い放った。

弁護士は法律は違えどどこの国で犯罪を犯そうが犯罪は犯罪である。

悪人が国が変われば善良になる訳ではない。と言ったが、息子は依然として鼻で笑い飛ばした。

 

なるほど、その通り、彼は今やなりすまし日本人になっていたのだった。彼は数年前に帰化して董えいと言う中国名から董正義(とうまさよし)に改名していた。彼は外見はさもエリート然として装っているが、その実、中身は卑怯で極端な拝金主義、人を人とも思わず、他人を見下し、中華思想丸出しの羞恥心のかけらもなく民度もない中国人の代表そのものだった。

 

帰化に際しても李は一計を案じた。両親とも同居必須と言う法務省の帰化条件を満たすため、李は追い出した夫をその時だけ呼び戻し無理に協力させ、当局にはずっと同居していると嘘を吐き、息子がやっと帰化成功すると直ぐにまた旦那を追い出している。

 

李は私の娘が当時インターナショナルスクールへ行っている事を非常に羨み、自分も子供を行かせたいが月謝が高すぎる、、と言っていた。極貧では行かせられない筈なのに、その後、二人ともアメリカとイギリスにそれぞれ留学させている。

それはひとえに他人を詐欺した汚いお金で行かせたに違いなかった。

 

さまざまな決定的証拠を収集した中にこんな証拠もある。

中国で李名義で物件を購入した貰った際、正式に登記された売買契約書を見ると、李が私に不動産屋から買ったと噓を吐いて売り付けたマンションはことごとく、息子と娘名義だったのが分かった。しかも、売買価格も正式登記価格と私に売った価格は大幅に違っていた。どこまでも、貪欲な李はここでも、また差額で一筆大儲けしようと企んだのだった。また正式に売買契約する時、母親の李だけでは売買出来ず、必ず名義人本人の参加とサインがなければ契約出来ない筈だ。この事からも分かるように少なくとも息子、娘もこの全体の詐欺事件に加担していた事が強く疑われる。知らないでは済まされる問題ではない。従って、今回子供二人の身分もここに公開し、同時に中国のSNSにもUPして、この詐欺師を1日も早く逮捕するために皆様のご協力を仰ぎたい。

 

特に息子に置いては、私達の8500万円を騙して振り込ませるために2012年3月21日から3日間母親の李と李の弟との3人でわざわざ口座開設をしに香港へ渡航していた。李は当時自分の古い香港口座があるからそこへ振り込めば良いと嘘をついたが古い口座など元からなく、実は用意周到に犯行日の1ヶ月前に私達に隠れて3人で香港へ行き、詐欺るための新たな口座開設をしたのだった。息子もこの詐欺に加担していた事になる。今思うと母親を庇うのは単に実母だからと言う単純な理由だけではなかったのだ。2017年に私は董えいのfacebookに李の悪事を数回投稿し、母を救えるのは貴方達子供しかいない、どうか協力して欲しいと書いた。それも完全に無視された。今思えば自分も関与していたのだから無視するのも当然だったのだ。僕は知らないなどと良く嘯けたものだ。まさに丸ごと詐欺一家そのものだったのである。

 

息子は5歳の時、母親に連れられて中国から来日している。現在おおよそ39〜40歳ぐらい。留学で箔をつけた息子董えいは帰国してから直ぐに広告会社電通へ入社、その後、Google社へ転職、続けて今度はバイトダンス社へ、今現在はまたBeReal社(本社:フランス・パリ)カスタマーソリューション責任者になりフランスIT企業の雇われ社長に収まっていて、次々と転職を繰り返して今に至っている。

 

娘は董愛歌(とうあいか)と言い、多分36〜7歳ぐらい。今でも中国籍で外資系のアクセンチュアと言う麻布十番にあるコンサルティング会社に勤めている。彼女は今は兄が結婚しているため親とは同居せず、港区白金の高級マンションへ移り住んでいる。

 

董愛歌

住所:東京都港区白金6丁目4-3号マーヴェラスガーデンコート706

出生:1990年3月3日

中国身分証明番号:220303199003032620

 

詐欺主犯格:李小叶(リショウヨウ)

1958年4月15日生。

66歳、中国吉林省四平市鉄東区向陽委一組。

中国身分証明番号:220303195804152624

現住所:東京都新宿区若葉1丁目21-4 パークハウス四ツ谷206号。

電話番号:070-2654-0256

(携帯番号を常に変更しているのでこれも通じるかどうか不明)

在留カード番号:

 

李時雨(リジウ):李小叶の末弟、今回の詐欺事件の強力な共犯者。

住所:中国吉林省四平市铁东区北市场街向阳委一组

出生:1966年5月14日

中国身分証明番号:220303196605142815

 

 

楊玉法(ヨウギョクホウ)または楊玉傑(ヨウギョクケツ):

以前は中国農業銀行の主任だったが、横領の罪で解雇され、今は交通銀行へ勤めている。

この楊玉法が李の共犯となり私の銀行通帳を偽造した疑い。

 

 

 

https://www.facebook.com/yingdong88  董エイ facebook

https://www.facebook.com/aiko.dong 董愛歌 facebook

この事件で李と言う詐欺犯がどれほど狡猾、凶暴、病的虚言癖があるかを改めて強烈に認識した。

騙された当事者であるにも関わらずこうして文字にすると改めてその恐ろしさに身震いがするほどだ。恐喝と気取られないような巧妙な脅迫、ゆすり、話のすり替え、嘘、詳細でリアルな架空のストーリーを瞬時に作り上げる、相手のその場の心理状態を即座に察知し対応自在なその才能は一般にはない天才的な物がある。

李の恐るべき才能は恐らく長年現場で培ってきた賜物に違いない。長い時間を掛けて計画し、相手の反応を見ながら、その都度計画を微調整し、詐欺と思われないように相手を騙す。そして、証拠を残さない。長い時間を掛ける事によって、詐欺の成分が薄まる事を彼女は経験から良く知っているのだろう。一人の人物から一度のみ騙すのに飽き足らず、その人の全ての財産を少しづつ重複して騙し取る手法は、連環詐欺と称してもいいだろう。恐るべき大悪人である。

 

 私は夫のためにも(実は騙された財産は彼の親から譲り受けた遺産だった)追求の手を緩めるつもりは毛頭無い。私には年老いた夫が死ぬまでは絶対逮捕して見せると言う強い気持ちがある。夢にまであの憎い李が現れると言う夫を安堵させて死なせたい。今では現金返還よりも、犯人に深く反省して欲しいと言う思いと、かくも悪質、狡猾、卑劣な詐欺師をこのまま社会に放っていては二次被害は又必ず起こると言う強い危惧から、広く日本の世間に知らしめたいと願うものである。

 

 悪は必ず成敗されるべきだと言う信念からこの情報を皆様に広く拡散して頂ければ解決に向けてこれ以上強い味方はないと思われる。

 

天網恢々疎にして漏らさず。

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