幕末ドラマ

日本史別天地

失われた記憶を編み直す試み

多く語られて来なかった歴史上の人物に焦点を当てると、見える世界がまた広がり出す。

史実に基づき

新作ドラマにして遺して行きます。

予告編に加え、ストーリー展開、キャストの詳細、そして、最新情報を掲載。

​現在、上田藩士 赤松小三郎

上田藩第六代藩主 松平忠固(忠優)

を軸にシリーズが展開中。

動画3本も以下に掲載中。

「小三郎伝」「忠固伝」「忠優伝」

第4弾もご期待ください。

​「忠厚伝」2021年12月中旬音声版公開予定

Take a Look
 
 

​PodCast

各種ポッドキャストで聴けます。

 
無線

PodCastで日本史別天地の作品が
お聴きいただけます。


2020年コロナ禍を迎え、
私たちは少なからず恐怖を覚えたはずです。
実は…俳優にとっても活動が制限され、
万一これまでと同じような表現活動が不可能となった場合、どんな条件下でも私たちに
出来得ることは?と考えていた折、みなとかおるさんが書き上げた脚本は一冊の時代劇でした。外国人も登場します。
大掛かりなことはとても出来ません。シンプルに朗読劇として収録することにしました。
さらに、もし収録現場へ全員揃わなくても遠隔にて音声データを持ち寄れば何とか創作は続けられるだろう。
という行動制限下当時の発想でラジオドラマ作りからスタートしました。
同時に動画は収録後に音声に合わせ作り上げるという昔のアニメ「じゃりン子チエ」の制作エピソードが浮かびました。
毎回、概ね30分の「令和の漫画日本昔ばなし」スタイルが出来つつあります。
 

​2021年7月
現在
Apple Podcast Google Podcasts Spotify Amazon Music Breaker PocketCasts RadioPublic OverCast   
​世界中で聴けます。
各種ポッドキャストアプリやPCウェブ上でドラマは聴けます。
日本史別天地 で検索してみてください。

「もう一つの明治維新」全三編 
みなとかおる作
 
歴史漫才チームΣ
東郷 森山高至 赤松 アライジン
歴史漫才チームΖ
東郷 氏家信樹 赤松 大矢敏幸

PodCast には
日本史別天地の初期作品
歴史漫才3編も納められています。
東郷平八郎赤松小三郎
有りえない組み合わせの漫才台本を
2組のチームが其々に違った
イメージキャラクターで聴かせてくれます。

 

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キャスト&クルー

集まった仲間たち

 
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みなとかおる

​​脚本

最近、

恐竜に羽毛があることがわかったように、

資料を読み直して日本の近現代史を

別の視点で書いています。

『東郷赤松コンビの歴史万歳』

『小三郎伝』『忠固伝』『忠優伝』

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​​三輪和音

声の出演・収録・編集

「小三郎伝」「忠固伝」「忠優伝」

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森山高至

​​声の出演

「小三郎伝」「忠固伝」「忠優伝」

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アライジン

声の出演

「小三郎伝」「忠固伝」「忠優伝」

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氏家信樹

声の出演

「小三郎伝」「忠固伝」「忠優伝」

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大矢敏幸

声の出演

「小三郎伝」「忠固伝」「忠優伝」

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​​鈴木奈津子

声の出演

「忠固伝」「忠優伝」

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​​田所ちさ

声の出演

「忠固伝」「忠優伝」

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林和夫

声の出演

「忠固伝」「忠優伝」

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​​関良基

​​歴史考証 特別参加

長野県上田市出身。

松平忠優(忠固)を研究。

著作本を参考文献としたことから作品の

歴史ストーリーについて詳細な歴史考証で

参加頂いています。

日本の農学・歴史学者 拓殖大学教授

​制作ノート

「小三郎伝」合情記

​2020年9月収録

 二〇二〇年の春、私は新型コロナウイルスの影響による自粛期間中、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』を読み直しました。この本は一九六〇年に全文の翻訳が出されています。

以前は気が付かなかったのですが、翻訳者の坂田精一氏の前書きに「終戦前(筆者注一九四五年)は(二十五年もの長い間)わが国では禁書の扱いだった。」とありました。その理由が、かいつまんで言えば「外国人の自由な観察が国民の目に触れることで、明治維新の素晴らしさを強調し国民精神の基盤にしようとする為政者にとって邪魔だったから。」だそうです。そして「討幕の志士や反幕府的な大名などが、サトウの歓心を買うことにつとめたことは第二次大戦直後の日本の政情にも一脈通じている。」ということは現代の日本にも重なります。また、サトウの記述の中に同僚だったアプリン大尉に英語を習った赤松小三郎のことが一行も出て来ないことに疑問を持ちました。赤松はもっと業績が知られ、歴史の教科書に載せるべき人物だと考えますし、上田藩主にして老中だった松平忠固も同様でしょう。この二人は、合理性と情の人々として日本に、世界に広めたい人物だと思って書きました。

 

あらすじ

一八六七年(慶応三年)に赤松小三郎は京都で三十七歳で暗殺された。

その悲劇の起きる前、一八六四年(元治一年)赤松は横浜のイギリス公使館に勤務する騎兵士官アプリン大尉に英語を習う。

イギリス公使館には一八六二年(文久二年)にアーネスト・サトウが赴任して歴代の公使を支え、日本との条約を有利に結ぼうとしていた。

一八六五年(慶応一年)に赤松は英語の兵書「英国歩兵練法」をもう一人の侍と共同で翻訳を始めた。一八六六年(慶応二年)徳川政権や上田藩の主君に建白書を提出する。薩摩藩から声をかけられ、京都で英国式兵学の塾を開く。一八六七年(慶応三年)会津藩の山本覚馬の依頼で会津洋学校の顧問となる。公儀、越前の松平春嶽や薩摩の島津久光に議会政治を求める「御改正口上書」を提出した。

そのころ、アーネスト・サトウは友人のトーマス・グラバーが在庫として抱えた大量の兵器の販売先を探していた。サトウは公使のハリー・パークスにはフランスのロシュ公使への対抗心を煽り、日本の若い侍たち、伊藤博文、井上馨、大久保利通、桂小五郎たちには、武力による『革命』を促した。サトウは西郷隆盛や坂本竜馬にも接触し、若い長州の侍たちを利用し、日本を「自覚なき植民地」にすることに成功する。

赤松小三郎は上田藩の下級武士でありながら数学と英語の能力を活かし、日本を立憲主義に基づく「人民平等」の近代国家にしようとしていた。明治が来る前に暗殺された彼の先進的な思想は、兵学の弟子、東郷平八郎に受け継がれ、日露戦争に勝利した。

​2021年2月収録

 松平忠固は、上田藩の藩主として、大凶作、大地震、洪水などで藩財政がひっ迫する中、領民に一人の餓死者も出さないという方針で臨む「公助の殿さま」ともいうべき人物だった。

また、徳川政府の老中として日本を開国に導く重要な役割を果たしていた。文化九年から安政六年(一八一二年から一八五九年)の忠固が生きた時代は、次々と外国船が押し寄せる日本の激動期に当たる。

ペリー提督の来日後、ハリス総領事が条約を結びに来て危篤に陥る。それを忠固は救う。徳川斉昭、井伊直弼という政治家の反対に会いながら、一貫して開国と交易を主張して日米和親条約と日米修好通商条約を自分の地位を懸けて結んだ。また、養蚕業を盛んにし、海外輸出で日本経済の礎を築いた。

注: 忠固は最近、ようやく知られてきた上田藩士の赤松小三郎と同様に知られてよい存在であり、最新の歴史的事実も交えて書きました。アメリカを始めとする外国との条約をめぐる史実、新事実はあまりにも複雑なので、架空の藩士「吉田朱鷺蔵(よしだときくら)」を登場させ、創作しました。

あらすじ

 一八五八年、アメリカ総領事、タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約を結ぶために日本に滞在していたが、予想を越える困難な徳川政権との交渉の緊張から解放された直後に危篤状態に陥る。徳川政権は蘭方医を派遣し命を救おうと全力を尽くす。

上田藩主にして老中であった松平忠固は修好条約に先立つ一八五六年のペリー来航時の日米和親条約でも開国と交易による日本の発展を一貫して主張する。それに対して徳川斉昭、井伊直弼は、開国と条約締結を阻もうとする。

条約の勅許問題、次期将軍のお世継ぎ問題が複雑にからむ中で、大奥、時の将軍などに支援されながら、忠固は自らの縁戚である公家筋などの意向も考慮し、条約締結をなしとげ日本を開国へと導く。天保の頃から日本及び上田藩は次々に災害、感染症に襲われ、飢饉にも見舞われるが、忠固は一人の餓死者も出さないという政策で臨む。しかし、家臣たちに扶持米のみで暮らすようにしたことは国元の家老たちに不満の元となる。忠固は条約締結後に老中を罷免されるが、横浜に上田藩の生糸を中心とした貿易拠点を造り、近代経済の基礎を作る。貿易に貢献した商人たちをねぎらい、貿易が好調に始まって間もなく謎の急死を遂げる。

「忠固伝」合情記
「忠優伝」合情記

​2021年6月収録

 松平忠優は、上田藩の藩主として、大凶作、大地震、洪水などで藩財政がひっ迫する中、領民に一人の餓死者も出さないという方針で臨む「公助の殿さま」ともいうべき人物だった。

また、徳川政府の老中として日本を開国に導く重要な役割を果たしていた。文化九年から安政六年(一八一二年から一八五九年)は、次々と外国船が押し寄せる日本の激動期に当たる。ペリー提督が浦賀に来航し、再来航を告げて沖縄に去る。忠優は上田藩主として養蚕業を盛んにし、大坂城代であった時は上田産物会所を作り、御城代縞と呼ばれる特産品を販売させ、経済を向上させた。その時の経験から開国と交易で国を豊かにする政策を進める。徳川斉昭は、尊王攘夷を主張して、忠優の前に立ちふさがり、武断政治を行おうとする。それに対して忠優は、日本の防衛力を冷静に判断し「日米和親条約」と「下田三箇条」を結ぶ。

: 忠優は上田藩士の赤松小三郎と同様に歴史上、もっと知られてよい存在であり、最新の歴史的事実も交えて書きました。外国との条約をめぐる史実、新事実はあまりにも複雑なので、架空の藩士「吉田朱鷺蔵(よしだときくら)」を登場させ、創作しました。

*忠優は、忠固と自ら改名し、「日米修好通商条約」も結ぶ。

あらすじ

 嘉永七年(一八五四年)一月、アメリカのマシュー・カルブレイス・ペリー提督は日本と日米和親条約を結ぶために浦賀に二度目の来航をした。前年の嘉永六年(一八五三年)六月の一度目の来航で日本を去る時に予告した時期よりも半年も早い再来日であった。上田藩主で老中を務めていた松平忠優は強大な武力を見せつけるアメリカとの全面戦争を避けるために鎖国から、通商を含む開国という政策の大転換を決断する。尊王攘夷を主張し鎖国を続けようとする徳川斉昭と、「開国、交易」で日本を豊かにしようとする合理性を持った松平忠優の両極の議論に徳川政権は揺れる。日本にはロシアのプチャーチン提督も和親条約を結ぶために来航していたが、外国人を「神の国」日本を汚す存在と考える斉昭と忠優の考えは相反するものだった。また、ペリー提督は、「日本は東方の未開国だ」という先入観を持っていたが、予想に反して交渉術に長けた人材が揃う徳川政権との条約交渉に苦心していた。天皇の権威を徳川政権の上に置き、攘夷思想で武断政治を行おうとする斉昭とその賛同者に阻まれながら、忠優は大奥の女性たちの意向も考慮し、日米和親条約を結び、開国を断行する。

📩YouTube版は

又違った趣きがあり良い仕上がりです

📩動画版見ました!忠優と斉昭が激論を戦わせる

様子が緊張感をもって描かれていて

引き込まれますね

松尾 貴史 (@Kitsch_Matsuo)さん より

皆さん滑舌や演技力が達者ですね、

キャラクターもバラエティに富んでいます。 台詞が終わる時に、次の人がすかさず話し始めると、「そう言われる事を最初から知っていた」感じになるので、一度腹に落とす少しの間を工夫されるともっと良くなると思います。